ドイツ ベルリン・ポツダム

2019年9月 6日 (金)

「ポツダム会談」が開かれた「ツェツィーリエンホーフ宮殿」の赤い星


ポツダム会議が開かれたことで有名な 「 ツェツィーリエンホーフ宮殿

 Schloss Cecilienhof 」 は ポツダム郊外の ユングフェルン湖と

ハイリガ―湖に挟まれた 風光明媚な半島部にある。

 

 

 

01.     ツェツィーリエンホーフ宮殿は 1917年に当時の皇太子

ヴィルヘルム・フォン・プロイセンが 自ら鍬入れをして建設が始まった。


この館には皇太子妃 ・ ツェツィーリエの名が 冠されている。

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02.    ウイルヘルムがツェツィーリエ妃と結婚したのが1905年、


ツェツィーリエは 1917年 工事がまだ完了してないこの宮殿に

6人目の子供を出産するため (2年に1度の出産!) 入城した。

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03.     しかし 以後二人は安泰でこの地に暮らした訳ではなく、


1918年の君主制崩壊によって ウイルヘルムは財産没収・抑留・

亡命・ 条件付き居住権の再獲得・ ヒットラーナチスへの傾倒など

変わりゆく時代の狭間で 流転の人生を送った。



ツェツィーリエ妃とはほぼ別居状態で 最後に二人が会ったのは

末っ子のツェツィーリエの結婚式だった。

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04.     「 ポツダム会談 」 という戦後処理会議が 

君主の愛の巣のはずだったこの宮殿の名を 歴史に刻んだのだ。



*       *



ソ連のスターリン 米国のトルーマン 英国のチャーチル 三巨頭が 

1945年7月17日  ツェツィーリエンホーフ宮殿に入り 

以後13回に及ぶ会議 Potsdam Conference がスタートした。

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05.     第二次大戦の戦後処理は 国土割譲や賠償金をめぐり

戦勝各国の思惑が交叉し、    ポツダム以前にも テヘラン会談

ヤルタ会談・ベルリン会議などで 幾度も協議が重ねられて来た。

 


メンバーも ヤルタ会談後 4月にルーズベルト大統領が病死した為 

米国代表はトルーマンとなり、  チャーチルが7月の選挙で労働党に

敗北した為アトリーに代わった、 という経緯がある。

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06.     会談の中心議題は 敗戦国ドイツの非ナチ化

ドイツからの賠償取り立て  ドイツ東部国境画定などだったが、

特に 米英とソ連の意見が対立し、会議は難航を続けた。



一方 日本はこの時点でもまだ徹底抗戦の構えを貫いていた ・・



*      *

逆船底のような梁天井を持つ この皇太子一家のサロンが

全体の会議場となり、    バロック様式の豪華な階段が 

報道陣の格好の撮影場所となり、数々の歴史的写真が残された。

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07.     ところで、 会談に際して 3か国の代表団には

入口を別々にした領域が割りふられ、  計36部屋に必要な家具は

ベルリンやポツダムの諸宮殿や別荘から持ち込まれた。

 


ソ連の執務室は 赤いサロンと呼ばれる皇太子妃の書斎だった所。


ベルリンはソ連の占領地域内だったため  ソ連はホスト国として 

他に 皇太子妃の音楽サロンや洒落た船室型のサロンなど

米英よりは広い範囲を使いまわした。

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08.     イギリスの執務室は 皇太子の喫煙室だったところ。


喫煙の機能が備わった部屋だが、 パイプをくわえた姿が良く似合う

チャーチルが 選挙敗北後この部屋に現れることは無かった。

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09.     アメリカの執務室は 皇太子の図書室だったところ。

現在は暖炉の設えとシャンデリアが変わってしまっている。

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10.    皇太子夫妻は この宮殿に住まう前 衛生管理が充分

行き届かない館に住んでいたと言う。   その為だろうか

皇太子の浴室 (左下)、 皇太子妃の浴室 (右下) には 

気配りが行き届き 見るからに清潔・機能的な部屋となっている。

 

 

ベッドルーム (上段)、 朝食ルーム (中段)、 二階にある

これらのプライベートゾーンは   想像では  流石に会議中

代表団などによって浸食されなかったのではないだろうか。


会議の行われた一階部分には 充分な部屋数があったからだ ・・

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11.    1945年7月26日に発表されたポツダム宣言では 

日本に 軍隊の無条件降伏 武装解除 国土の占領 日本の領土を

4島に限定  戦争犯罪者の処罰 などの諸条件が突きつけられたが、


とりわけ 天皇制の維持に関する確証が得られなかったことで

日本側は それまで同様 無条件降伏の提案を無視した。  




一方 既に実験を済ませ 軍事上の切り札として原爆を所有していた

アメリカは これらを受諾しなければ 即刻日本を全滅させると迫った。

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12.     原爆使用については 7月24日 既にトルーマンから 

許可が下りていた。      日本政府のポツダム宣言無視により 

ついに 8月6日広島に、 9日長崎に、 原爆が投下されたのだ !  

 


8月15日 日本の天皇は歴史上初めて 国民に向けて

降伏を宣言する玉音放送を行った ・・・

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13.    日独伊降伏受け入れによって 第二次世界大戦の終戦

処理は済んだが、 実はポツダム会談自体は大きな失望のうちに終了した。 

 


ヒットラーに抵抗するという共通基盤が無くなった時  米英ソは 

互いの世界観や政治システムが全く異なっていることに気付いた ・・・


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それは新たな冷戦の始まりだった。

ソビエト連邦をリーダーとする共産主義国と アメリカをリーダーとする

資本主義国との対立関係が鮮明となり、 これまで 何十年も

数々の危機的ニュースが世界中にもたらされて来た。

 

しかし 今や 世界はもっと恐ろしい これまでとは質の違う冷戦が

あちこちで起きている。


ツェツィーリエンホーフ宮殿中庭に輝く ゼラニウムの花が作る

ソ連の赤い星は まるで 古き良き時代の思い出のように見えた。

 

 

 


( 古い時代の写真は ツェツィーリエンホーフ宮殿内の展示物、

小冊子から引用しました。 

入場料にエクストラのお金を払えば写真を撮ることが出来る。  )

 

 

 

 


*    *    *    *    *    *    *

2019年8月30日 (金)

ジャガイモなんて食えない!という偏見を解いたフリードリヒ大王の秘策


ドイツ料理と言えばジャガイモ、 こんな当たり前の食文化が

定着した陰には、  土まみれのジャガイモなんて食べられるか ! 

という農民の偏見と強い抵抗を   ある奇策で突破した 

フリードリヒ大王の知恵があった。








01.   「 ポツダム Potsdam 」  はベルリンから西へ数キロ、 

ブランデンブルク選帝侯が エルベ川の支流と運河に囲まれた

この絶好の地を 17C初め 居住地と定めた。



街の入口には  1770年建造の 巨大な 

「 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor 」 が聳えていた。

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02.  門のその先には ’ プロイセンのヴェルサイユ ’ と称される

広大な庭園と豪華な低層の宮殿が広がった。  まず目に留まったのが

宮殿前庭を囲む 優雅な半円形の列柱と羊の群れだ ・・

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03.   この 「 サンスーシー宮殿 Schloss Sanssouci 」 の主は

かの フリードリヒ大王 Frederick the Great (1712~1786) 。

 

彼は ’啓蒙専制君主’ の代表格で、 珍しくも本を書く王様だった。

30巻に及ぶ著書 「 反マキャベリ論 」 は、 

息子が文化芸術にのめり込むのを嫌った父親王の目を避けて 

当初 オランダで 匿名で出版された! 



他に 「七年戦争史」 「 ドイツ文学論」 等の著書もある。

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04.    さらにフリードリヒはフルートの名手で 度々コンサートを開く

傍ら作曲もした。   フランス語に堪能だった彼は フランス文化にも

精通、  長年哲学者ヴォルテールと親密な交流を重ねた。



政策的には 拷問の廃止 貧民への種籾貸与 宗教寛容令 

検閲の廃止 オペラ劇場の建設 アカデミーの創設 などを行った。

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05.    その一方 優れた軍事的才能も持ち合わせていた彼は

オーストリア継承戦争、 第一・二次シュレージェン戦争、 七年戦争、

バイエルン継承戦争など 18世紀中頃ヨーロッパ全域で吹き荒れた

領土争い戦争に 人生の大半を捧げた形となったが、   やがて   


彼は数々の病を得、 そのボロボロの心身を癒す場所が必要となった。

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                            ( 庭園では ずっとワイン用ブドウの栽培が行われて来た )





 

06.     そんな彼が 晩年暮らしたのが ここサンスーシー宮殿、

サンスーシー San Souci とはフランス語で憂いのないという意味、



ここ ” 無憂宮 ” で   彼は浮世のあらゆる心配事を忘れ  

コンサートを開くなどして 芸術とりわけ音楽に没頭した。

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07.     そんな彼にはもう一つ面白い顔があった。 ジャガイモの

普及に努めた王なのだ。  ジャガイモはもともと インカを支配した

スペイン人が 16Cに花を愛でるものとしてヨーロッパにもたらしたが、

一般に食用として認知されるには 相当時間が必要だった。




先見の明があった フリードリヒは ジャガイモは飢饉の時は飢餓を

救い、 日常ではきっとジャガイモがパンの値段を下げる、 と考え

1756年 ジャガイモの耕作・普及に努めよ というおふれを出した。

 

しかし 土まみれで育つ根っ子玉、 味もそっけもないジャガイモに

犬すら食わぬぞと、 人々は なかなか見向こうとしなかった。

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             (  サンスーシーの風景を乱すと 壊されかかったものの、

             農民の嘆願を聞き入れたフリードリヒに 命拾いされた風車 )

 






 

08.     まずは 少しでも人々の拒否反応を解き ジャガイモを

食料として受け入れて欲しいと、 彼はキャンペーンコインを鋳造した。


” Potatoes instead of Truffles トリュフの代わりにポテトを! ”

やはり土中から見つかる貴重なトリュフに なぞらえたのだ。




しかし  ” 農民は知らないものを食べようとしない ” という

プロシャの諺通り 人々の拒否反応は相当頑なだった。


町の役人たちすらも  そんなもの喰えんと 

おおっぴらに王様にたてついたと言う!

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             (  サンスーシー宮で 王様のお墓の前に座る 若い人々 )

 







09.      そこで フリードリヒは一計を案じた。  

ベルリン郊外に作ったジャガイモ畑の周辺を 如何にも高価なものを

守るかの様に 恭しく 軍隊に見張らせた。


その一方で 見張りに寝たふりをさせたり、 適度に隙を作らせると

狙い通り とうとう 臣民たちがジャガイモを盗み始めたのだ!  
 



いったん食べてみれば ジャガイモ程美味しく便利なものはない。

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10.     ジャガイモあってのドイツ料理、 こうした彼の努力が 

今日のドイツ料理の礎を作ったと言っても 過言ではないだろう。



彼は今 サンスーシー宮殿の庭で眠っている。 名が刻まれた墓石には

毎週新鮮なジャガイモと花束が添えられ 敬愛の情が示されている。

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11.    ところで フリードリヒは無類の女嫌いだった。 

結婚した妻とは夫婦生活は無く 僅かに文通だけが続いた。 



嫌いなだけでなく 事あるごとに女性蔑視を貫いたフリードリヒは 

当然女性にも総スカンを喰らった!   フランスのポンパドゥール 

オーストリアのマリアテレジア  ロシアのエリザベートなどが 

戦時中 こぞって敵方に回ったのも当然の報復だったと言える。

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12.    文武両道 公私共にこれだけ様々な業績を残した

大王だったが、 女嫌いそして人間嫌いの人生の末路は孤独 ・・



信頼出来て 慰め・生き甲斐となったのは愛犬だけだった。    

遺言通り 彼は今 11匹の愛犬と枕を並べるかのように

12枚の墓石プレートの下 サンスーシーの庭で眠っている (写真11.)。  

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13.     宮殿を出て ポツダムの街角を進むと 美しくリッチな

家々が続いた。   白い花がこぼれて 小路を白く染めていた ・・

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                                ( ポツダムの子供たち )







街外れ  やがて 

ポツダム会議が行われた 「 ツエツイ―リエンホーフ宮殿 」 が近づいた。

 






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2019年8月23日 (金)

ベルリンの超レトロと超モダン 旧国会と新首相府・テレビ塔とガラスドーム


ベルリンには 東ドイツ時代とそれ以前の重厚な文化遺産と

ビックリするほど最先端のモダンアート的なものが 並存している。






01.     「 ベルリン大聖堂 Berliner Dom 」 1905年建替え


第二次世界大戦の空爆で被害を受け 1993年に修復されたが 

114メートルのグリーンの天蓋が立派で 堂々たる聖堂だ。
      

内部もまるでカトリックの様に華やかだが、 ここが 

ルター派のプロテスタント教会であることが興味深い。

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02.    噴水を起点に 左手には 「 旧博物館 Altes Museum 」。

もとプロイセン王国のコレクションを収蔵していた由緒ある博物館。

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03.   入口左側には ライオンを仕留める狩人の彫像、 右側には

猛獣からの攻撃を防ぐアマゾン族の女戦士の彫像が配されている。


勇ましい2つの像だが  乳房の有無でなんとか区別がつく。

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04.     「 旧国立ギャラリー  Alte Nationalgalerie 」  

古典から近代までの多彩な絵画を所蔵している。  01~04.は 


シュプレー川の中州の北側部分を 芸術と科学の聖域にするという

国王令に基き作られた 「 博物館島 Museumsinsel 」 に建っている。



どの建物も 中州の湿気や川の氾濫から収蔵品を守るため、

土台がかなり高く作られており、 立派な佇まいとなっている。

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05.     「 旧帝国国会議事堂 ライヒスターク Reichstag 」

1894年以降 ここで 普通選挙による帝国議会が開催されて来た。

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06.     1945年には 連合軍による爆撃で破壊されたが

再建後、 1990年に  統一ドイツの最初の議会がここで開かれ

現在でも ドイツ連邦議会の議場が置かれている。    一方



メルケル首相のいる 「 連邦首相府 Bundeskanzleramt 」 は 

シュプレー川を横切って両岸に伸びる、 コンクリートとガラスを

組み合わせた 採光に富む白いモダンな建築物になっている。




新旧の建物が これほど激しいコントラストを見せるのも

ベルリンならではの現象だ。

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07.     1999年に 連邦議会議事堂の屋上に

イギリス人建築家の設計によるガラス張りのドームが完成した。


まだ20年ほどだが 観光地として近年人気がうなぎ登り、 

入場には事前のネット予約が必要で、入口では持ち物検査もある。



ガラスは一枚一枚 直射日光を避けるべく 角度調節出来るそうだ。

ここにも とてつもない新・旧建築の競演がある。


まだスカイツリーにも登ってない私だが、   次の機会には  

ベルリンの絶景を一望すべく 是非訪ねてみたい!

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                  (  写真は ライヒスターク ドーム h.p. から  )






 

08.    「 ベルリンテレビ塔 Berliner Fernsehturm 」 1969年

高さ368mと ベルリン市のどこからでも見える 毎年100万人が

訪れる人気スポットだ。              テレビ塔は 



もともと 東ドイツの工業力を誇示する東ベルリンのシンボルで、 

かつて その足元にはシュプレーパークという遊園地があった。



遊園地は大繁盛していたが 東西ベルリン統一後 入場者数は激減、

2002年に倒産した。         趣きあるレトロな観覧車は

もったいなくも壊され、 テレビ塔と明暗を分ける形となった。

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09.   「 ポツダム広場 Potsdamer Platz 」  かつてここには 

ポツダム門があり、 ポツダムとベルリンを結ぶ街道の起点だった。



広場周りのビルは ショッピンエリアであり、 同時に最先端の

シネコンエリアでもある。 ベルリン映画祭は ここで開催される。 


奥の 富士山のような建物は 「 ソニーセンター 」

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10.     ベルリンは統一という事情もあって 他の都市より

確かに開発は遅れたが、  新しいビルの建築には コンペなどで

最新のアイディアが採り入れられ 近未来的デザインの建物が

あちこちで生まれている。    角のない丸いビルも多い !

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             ( 左上ドイツキリスト教民主同盟本部 左下ギャラリーラファイエット )








11.    ところで 街を歩く先々で 青いパイプが張り巡らされていた。

冬のスチーム暖房用かとも思ったが、 意味は分からなかった 、、、


ベルリン人に聞いてみたところ、 もともと沼地に発達したベルリンは

工事で地面を掘り返すと すぐに水が湧くらしい。  そうした水を

運河に送り出すパイプだと言う。       



なるほど パイプは街の発展工事の一端 と分かったが、  一方 

美術館で見かけるパイプモダンアート作品みたいだ、 とも思った !

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12.    右上は 「 戦勝記念塔 Siegessaule 」 

先端に勝利の女神ヴィクトリアを頂く高さ67mの塔。 

  
のどかで美しいベルリン風景も あちこちにある。

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13.    最後に食べ物を少々。  どれも まあまあのお味・・・・



ビールは最高に美味しかった。  ピンクのビールはラズベリー味。 

ノーマルビアがいいに決まっているが ご愛嬌 、、 ものは試し 、、

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ドイツ料理にジャガイモは やっぱり切り離せない。



次回は じゃがいもにまつわる王様のお墓を訪れます。








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2019年8月 9日 (金)

ベルリンの壁、ブランデンブルク門、そして冷戦時代の陰鬱なベルリン


第二次世界大戦後、 戦勝連合軍 (米 ソ 仏 英) は

敗戦国ドイツを4分割して それぞれを管理下に入れることにした。 



ソ連の占領地区内に入ったベルリンだが 首都だったため

特別に4か国の共同管理下に置かれた。    奇しくも

東ドイツ国内の小さな飛び地となったベルリンの中で やがて 

資本主義国家・西ドイツと 社会主義国家・東ドイツという

2つの政治体制の対立が際立って行く。






 

01.      西側と東側の生活水準には みるみる格差が生まれ

言論統制などにも反発する知識人や若者 農民など 多くが西側に

逃げ出した。   それまで東西の行き来はある程度自由だった。 



しかし、東ドイツ政府は極秘に計画を練り、1961年8月12日深夜

突然 東西ベルリンの境界線に鉄条網を張り、 翌日昼までに

往来を完全に封鎖する 「 ベルリンの壁 」 を作り上げてしまった。



ちょっと外出したはずの市民が 家族と分断された事例もあった・・

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       ( 鉄条網は順次コンクリートの壁に造り替えられた )






 

02.     「 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor 」

( 旧東ドイツ側からの姿、 西側からは裏面しか見えなかった )



ベルリンの象徴的存在だった このブランデンブルク門は

ベルリンの壁の東ドイツ側に組み込まれた。


門上の4頭立て馬車クアドリガ はナポレオン戦争時 パリに

持ち去られたが 1814年にプロイセン軍が取り戻したものだ。

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03.      「 ベルリンの壁崩壊 1989年11月9日 」


ベルリンの壁が崩壊した時の テレビ画面に映し出された光景は

衝撃的で忘れられない。 人々は 象徴的なブランデンブルク門

に立ちはだかる コンクリートの壁をまず壊しにかかった。



それまで お尻しか見えなかった彫像馬車を 門をくぐり抜け

旧東側から眺めて 感動した人々も多かったろう。



28年間という 歴史的には短い封鎖期間だったが 

人の精神と生活を支配した重苦しく長い時間だったに違いない。

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04.    ブランデンブルク門付近 ベルリンの壁の跡地に沿って 

石がライン状に埋め込まれている。   日本人が見ても感慨深い。



因みに 壁は 東西をスパッと直線で切り分けた訳ではなく 

川や道路 建物に沿いつつ、 またある面では本部の策略上

ジグザグと不定形に張り巡らされた。

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 *    *    *

 



 

05.     現在でも数か所 残されているベルリンの壁の実物。  

突貫工事らしい粗雑さで ヒョイと乗り越えられそうだ ・・

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06.    しかし、 壁はたいてい二重に作られ、 二枚目の壁を

越える前に 監視塔からの射撃を浴びて命を落とすのだ ・・

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07.  「 ベルリンの壁メモリアル Gedenkstatte Berliner Mauer」

記念館と壁とその地区全体が メモリアルとして保存されている。

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            (  記念館屋上からの風景 )








08.     道路沿いの壁は 建物自体に引き継がれる。



1961年9月25日、ベルナウワー通り Bernauer Strasse、

窓から逃げ出す東側の住民。   この後 窓はセメントで塞がれた。


逃げるため掘られた地下トンネルの西側の出口付近 (写真上右)

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        (  写真は 記念館の展示物とパンフレットから  )

 






09.     07.付近。  壁跡のラインと メモリアルプレート。

’ ここで2人が逃亡成功 ’ ’ Martin Mが逃亡を企てたが捕まった ’



東から西へ脱出しようとした 136人が命を落としたそうだ。

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10.   さて、 東ベルリンと西ベルリンの境界線上には国境検問所

「 チェックポイント・チャーリー Checkpoint Charlie 」 が置かれた。



外国人および外交官 西側諸国の軍関係者が 徒歩か車で

通行するための検問所で 一般のベルリン市民は通行できなかった。

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                 (  検問所付近の道路  )








11.   この検問所は アメリカ統治地区とソ連統治地区の境界上に

あって 当時アメリカ軍が管理していた。 そこで今でも アメリカ国旗と

米兵 (の恰好をした人) が 観光客の写真の相手をしている。  



この検問所をめぐる 様々な脱出劇や外交事件などについては

隣りのミュージアムで展示されている。

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12.     1989年11月 壁が崩壊すると、 東ドイツの人々が

雪崩を打ってこの検問所を通過した。  



拍手と歓声を浴びながら検問を通過した 東独の大衆車トラベントも 

今や製造中止となり 古き時代のメモリアルとなって飾られている。

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13.  ところで 壁が崩壊する前の冷戦時代にも 東独を通過して 

ベルリンに 一本の道路と一本の線路が乗り入れていた。 

ビザを持っていれば 外国人の旅行は可能だったのだ。




まだ若かった bella-dannaさんも ソ連統治下のベルリンに入った。

黒く薄汚れた建物と寡黙な人々、、 陰鬱なベルリンを歩いた、、


美術館の帰り道 方向を失い 一人の男に道を尋ねた。 すると

車で送ると言う。 どこかに連れて行かれるかと半信半疑ながら

例の東独車トラベントに乗り込んだ。        男は




道中ほぼ口を利かなかったが 穏やかな人柄だけは伝わった。

外国人の検問所 チェックポイント・チャーリーの 遥か手前で、

余計な尋問を避けるかのように、 旅行者を車から降ろした。

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          (   別な場所にも ベルリンの壁の一部が残されている。 )







観光事業という意味では ベルリンの観光産業は まだまだ

緒に就いたばかり、というのが 今回の旅行で受けた私の印象だが



冷戦時代のベルリンとは隔世の感があった、と

dannaさんは つぶやいた ・・・








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