音楽の都ウイーン・ 皇妃エリザベートが絶世の美女だったので・・
ウイーンは 音楽の都だ。 ハプスブルク家の宮廷文化を礎として
多くの音楽家が活躍した。 また そのハプスブルク家が輩出した
絶世の美女 皇妃エリザベートを敬愛する熱は未だに冷めない。
01. ワルツ王 「 ヨハンシュトラウス二世像 」 市立公園
この金ぴかの像を見ると ウイーンにやって来たという実感が沸く。
02. ト音記号の花壇と 「 モーツアルト像 」 ブルク公園
ハイドン シューベルト そしてモーツアルトは オーストリア生まれだが
ベートーヴェン(独)やマーラー(チェコ)なども ウイーンで活躍した。
ウイーン最古の 「 カフェ フラウエンフーバー 」 で 1788年
モーツアルトがヘンデルのパストラーレ (牧歌的な曲) を演奏し、
1797年にはベートーヴェンも
4つの管楽器とピアノフォルテの為の 五重奏を演奏したと書いてある。
(ピアノは強・弱両方の音を表現出来るので 当時はこう呼ばれた)
03. 「 国立オペラ座 Staatsoper 」 1869年
モーツァルトのドン・ジョバンニでこけら落としが行われた。
オペラ座前で コカ・コーラ・ゼロ を無料で配っていた。
勿論私ももらって ひと時 のどを潤し暑さを凌いだ ・・
04. オペラ座見学ガイドツアー 約40分
05. ウイーンでは気軽に楽しめる、言い換えれば 観光客用の
ナイトコンサートが 市内の至る所で毎夜開催される。
オペラ座 楽友協会 コンツェルトハウス シェーンブルン、
ペータース教会 カールス教会 聖アンナ教会 アクアハウス等の
有名どころから 中小のホール カフェなど、 選ぶのに困るほどだ。
06. オペラ座前、カラヤン広場では 昼間から
モーツアルト時代の衣装を着た売り手が 熱心に勧誘していた。
( 因みに 私は旅先ではコンサ―トに行かない。 )
07. さて、ここは 「 カールス教会 Kariskirche 」 1713年
神聖ローマ皇帝カール6世が ペスト撲滅を祈願して建てたもの。
08. 大理石の柱や壁画の美しさが抜きん出ている。 壁画は
長らく修復中だが、 パノラマ・エレベーターと名付けられた足場が
組まれており、 それで登ると 間近で天井壁画が見られる !
09. 足場から堂内の華麗な装飾も楽しめるが、 天窓からは
正月にニューイヤーコンサートが行われる 「 ウイーン楽友協会
Wiener Musikverein 」 の赤い建物も見ることが出来る。
* * *
10. さて 皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の皇妃エリザベートは
バイエルン王家の次女として1837年に生まれたが、 当初は平凡な
顔立ちで フランス語も話せなかったので 縁談話が全く来なかった。
フランス語は 各国の宮廷内での公用語として また
国際的な外交用語として 欧州広域で何百年も用いられて来た。
それはフランス語が上品で優雅だから という理由より寧ろ、
それぞれの国で話される民族語は 下賤の農民・庶民が使うもので
貴族階級の言語とは 区別・差別しておく必要があったからだ。
平凡な幼稚園の先生だった英国のダイアナ妃が ある日美貌を
開花させた様に、 16歳になったエリザベートにも輝きが訪れ
皇帝のハートは激しく揺さぶられ 一目惚れ結婚するに至った。
( 星のドレスと呼ばれる舞踏会衣装を着た最も有名な肖像画 )
11. 美に生涯を捧げたと言われるエリザベートは 身長172cm
体重47kg ウエスト50cm (毎日コルセットでの締め上げに1時間)
透明な白い肌と 5kgもの重量があったという 踝まで届く長い髪
(朝夕 侍女がくしけずり結い上げた) を持っていた。
こうした美貌は 健康的に痩身を維持する過酷なダイエット食生活、
器械体操 強行軍の散歩 水泳 乗馬などの運動、 冷水浴や
マッサージなど、 涙ぐましい究極の自己管理により維持された。
しかしながら 誰しも老いからは逃れられない。 50歳代になると
関節の痛みや 栄養失調、 シミやしわ・美貌の衰えに襲われ、
彼女は 傘や扇 黒いベールで顔を隠して歩くようになったと言う。
12. エリザベートの美貌が完璧であればあるほど 人は欠点を
何とか見出そうとするものだ。 鼻の穴が大き過ぎる 極端ななで肩だ
腕が丸太のように太い 歯並びが悪くて黄色い あごがしゃくれている ・・
また 彼女は堅苦しい宮廷生活を嫌い 贅を尽くした豪華旅行を好み、
特に お気に入りのハンガリーで過ごすことが多かった。
( シシイと言う愛称も 人気のハンガリーで付けられたものだ )
そこで 外見ばかりでなくその生活ぶりについても、
皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切放棄し
法外な額の買い物をするなど 欲望のままに放縦な生活を送った皇妃
といった 辛辣な批判と最低の評価が投げかけられた。
13. 彼女は3人の子を産んだが 息子ルドルフ皇太子は
恋人と心中し、 自身も 旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで
イタリア人の無政府主義者に短剣のようなヤスリで心臓を一突きされ
61歳で 1898年9月10日その生涯を閉じた。
しかしながら 百年以上経った今日、 ウイーンに行ってみれば
未だ 彼女は熱烈に愛され、 肖像画がお菓子の缶になっている。
どっちみち人はいずれ歳を取るものだし、
窮屈な宮廷生活と そりの合わない姑から 宮廷の外に抜け出て行く
行動力も自立心もあった 現代風の女性だったと言える。
美貌をそのままに 現代に蘇ったエリザベートは ある意味勝者だろう。
( 私が 彼女のカレンダーをお土産に買ったのも
美のサンプルとして 私のダイエットの励みとしたいからだ ^&^ )
上の教会は 「 アウグスティノ派聖堂 Augstinarkirche 」
白くシンプルな作りだが、 マリアテレジア マリーアントワネット
かのナポレオン そして美貌のエリザベート 彼らの結婚式は
みなここで挙行された 由緒正しき教会だ。
彫刻は マリアテレジアの四女 マリアクリスティーナの死を悼む
家族の葬列。 美貌のエリザベートが 暗殺された時も
こんな風に悲しむ人々がいたに違いない ・・・
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