「ムンク」 整った古典的絵画も描けますが、あえての象徴主義!
ノールウェー・オスロ市にある 「 ムンク美術館 」 を訪ねた。
ムンクの作品を見る鍵は2つある。
ひとつは ’ 不安 ’ で、 もうひとつは ’ 象徴主義 ’ だ。
彼の絵は 何であんなにタッチが荒いのか 日頃から不思議に
思っていたが 少し謎が解けた気がした。
01. 「 思春期 1895 」
思春期のただ中にある少女の不安と恐れが
深く美しい色調で描かれている。
背後にまとわりつく影が ムンクの ’ 不安 ’の象徴だ。
02. 「 マドンナ 1895 」
2004年に 「叫び」 と共に 真昼間銃を持った犯人に強奪され、
身代金を要求されたものの おとり捜査で2年後に無事戻った作品。
03. 「 絶望 1894 」 「 叫び 1893 」
エーケベルグの丘の道路の柵沿いに見るフィヨルドと不穏な赤い空、
そして耳を塞ぐ人物。 彼は叫んでいるのはなく 叫び声を聞いている。
ムンクによれば ” 突然血のように赤くなった空から
自然を貫く 大きく終わりのない叫びが聞こえた ” ・・・
04. 「 月星夜 1924 」 ゴッホにも同タイトルの絵がある。
この様にムンク美術館では写真OKだったが 人を押しのけて撮る訳にも
いかず 斜め撮りが多かった・・・ ( 以下へ 言い訳 !)
05. 「 自画像 1882 」 「 地獄の自画像 1903 」
ムンクは 80歳で亡くなるまで 80点以上の自画像を描いている。
左側 最初期 19歳当時の自画像。 立派な風貌だ。
右側下 別れ話のもつれから 付き合っていた女性に発砲され
左手中指の一部を失い、 精神を病んでいった当時の自画像
06. 「 病める少女 1886 」
ムンク5歳の時 結核で亡くなった母に続き、
彼が14歳の時 母親代わりとして慕っていた姉も結核で亡くなった。
07. 「 病室での死 1895年 」 左側上
右奥の椅子に座らせてもらい 家族に見守られ臨終を迎える姉ヨハンナ。
手前は妹。 実際の椅子の展示もあった。
08. 「 すすり泣く裸婦 1914 」
上の 06.「病める少女」 に話は戻るが、 実は ムンク、
新境地を拓くことになる大胆な技法を用いて この絵を描いたのだが、
批評家筋からは激しい非難を 素人からは嘲笑を浴びてしまう。
” キャンバスの下地塗りもせず、 殴り書きの様な荒い筆遣い、
縦・横の線で無造作に仕上げ、 近くで見たら何のことやら
ただの雑多な色の斑点だけになる ・・・ ”
09. 「 安楽椅子のそばのモデル 1929 」
ムンクの絵は国内の評論家たちの辛辣な批判にさらされたばかりでなく、
ナチスによって 不道徳で退廃的芸術との烙印が押され、 1937年
82点の作品がドイツ国内の美術館から没収される憂き目に遭う。
10. 「 春 1889 」
ところでムンクは 「 病める少女 」 に対する嘲笑・批判に反発して
このように美しく整った古典的絵画 「春」 を描いて見せた。
ムンクにしてみれば 実力開陳 胸のすく思いだったろう。
この絵はすぐさま傑作として受け入れられた。
私も これがあのムンクか と驚いた !!
11. 「 灰 1925 」
人妻と禁断の恋愛に陥り、不倫の憂鬱に苦しんだ時期の作品。
ところで 「春」 のようなアカデミックな絵を描けるのに 何故
ムンクは 手荒い 殴り書き技法に向かったのだろうか ・・・?
12. 「夏の夜、人魚 1893」 左上 「二人、孤独な人たち 1935」 右下
それは 写実的であればあるほど 目で見える範囲の存在感が
限定的となる一方、
画面が荒ければ荒いほど 獏とした形が象徴するものへ
一層強力に心の眼が導かれ、 作品に内在する不安や悲しみが
思いがけないほど大きく見えることがあるから、、
これが ムンクが目指した ” 象徴主義 ” だと思う。
13. 「 自画像 時計とベッドの間 1944 」
美術館入口 ムンク最晩年の自画像が看板となっていた。
ムンクの 「 叫び 」 も、 ごく普通の風景画より
一層不気味な叫び声が 象徴主義的画面から轟いて来そうだし
ムンクの生涯に憑りついた 「 不安 」 も 象徴主義の
荒々しい筆致によって 一層深く見る者の心に響くのかも知れない。
ムンクをちょっと見直した 美術館訪問となりました。
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