小樽・ニシン御殿 石狩挽歌・あれからニシンは何処へ行ったやら♪
01. 北の日本海沿岸に押し寄せたニシンの群れは
明治時代から昭和中期まで
留萌・小樽など北海道の水産業を支えてきた。
出稼ぎのやん衆達が海から引き上げた 大漁のニシンが
浜を覆い尽くし、 作業する者もニシンの山に埋ずもれた。
02. ところが 鰊の魚群は昭和29年に ぱったり消滅する。
それまでの地域の繁栄を偲ばせる 「鰊御殿」が小樽市の北部
の岬に建っている。 明治30年 泊村に建てられた館が
昭和33年小樽市に寄贈され 現在地に移築復元されたもの。
03. 写真の白い矢印の先 白い灯台の下に鰊御殿はある。
春先の3~4か月だけのニシン漁で 1年分の生活費が稼げ、
例えば大正3年頃のある網元の漁場からは 7500トンもの
水揚げ (現在の約25億円に相当) があったと言うから、
ニシン漁はまさに金の成る木、
沿海地域 そして北海道にとっての花形産業だった。
04. 御殿の中は広い畳敷き。 当時は
板間 畳間などに区切られて、 様々な用途に使われていた。
05. ニシン漁やニシン加工に使われた道具、
番屋で寝泊まりした人々の生活用具、
当時の盛況を伝える写真などが展示されていた。
06. 観光客 が大漁羽織を試着するコーナーもある。
07. さて、鰊御殿は 大金持ちの網元が 遠来より
一流の棟梁たちを招き寄せ 敷地に住まわせて建てさせた。
出稼ぎやん衆が寝泊まりする単なる番屋とは違い、
豪雪や風雨に強いのは元より、 本州から取り寄せた檜や
木目の美しいケヤキ・タモ材が使われ、 廊下は漆塗り、
透かし彫りの欄間まで設わる豪華な木造建築、
そういうものが ”御殿” と呼ばれた。
写真のような 希少な長材も 紛れもない御殿の証しだ。
08. 1階は 主に作業 ・ 加工場、
2、3階は漁夫たちの寝室、 中2階には女中部屋があった。
魚を扱う作業場は 相当な臭いが漂うため、 次第に
主人たちは別棟に暮らすようになり、 作業場とは無縁の
さらに豪華な別邸御殿も あちこちに建てられた。
小樽市内には 現在料亭として活用されている
有形文化財指定の 旧青山別邸・小樽貴賓館もある。
09 因みに 鰊は食料として珍重されたのは当然だが
冷蔵庫など無い時代、 内臓を取って干した身欠き鰊や
肥料としての 鰊粕(にしんかす)こそが 稼ぎ頭だった。
日本海航路を行き交った かの有名な 「北前船」が
北海道から運んだ 昆布や身欠き鰊・鰊粕などは
全国各地で引く手数多、仕入れ値の5~10倍で売れた !
昆布は 関西のだし文化を生み、
鰊肥料は みかん・綿花などを育てた。
特に大阪・河内での綿花栽培は 肥料のお陰で
柔軟性と吸湿性に富む優れた木綿を作り出し、 羊毛を
産出しなかった日本の衣類・寝具に革命を起こした。
10. さて、水温の変化とか乱獲とか 原因はさて置き、
昭和29年を境に 鰊の群れはパタリとやって来なくなった。
11. 鰊御殿の建つ高島岬の断崖が 海に伸びている。
私が 北アイルランドの最北でようやく目にした 「柱状節理」、
思いがけず北海道でも 6角柱の節理群に会えた ・・
12. ところで話は変わるが、 上の高島岬を 西へ
数キロ行った海岸に 「 オタモイ遊園地・料亭竜宮閣 」
という大人気のリゾート施設が 大昔 あったと言う。
昭和初期に開業したこの施設、 一時休業が明け再開する前日
昭和27年の大火により全焼、 わずか17年の営業で廃園、
劇的な消滅を遂げたのだ。 今はトンネルなどが残るだけ・・
「 オタモイ 」 は鰊漁産業の盛況と共に生まれた。
そして、
鰊漁で繁栄の絶頂にあった小樽の海岸から 鰊の魚群が
突然消え去ったのと ほぼ時を同じくして
「 オモタイ 」 も人気絶頂時にこの世から忽然と消えた。
兵どもが夢の跡、 切ない話ではある ・・
13. 実は この ”オタモイ御殿 ”
昔のヒット曲 「石狩挽歌」 の歌詞に出ている。
今回ブログを書くついでに 私は石狩挽歌を聞いてみた。
” あれから ニシンはどこへ行ったやら ・・・ ”
情緒豊かな旋律、 生活や歴史を想起させる歌詞、
日本人好みの侘び寂びに満ちた 想像以上に良い歌だった。
因みに 本家・北原ミレイの
野太く投げやりな歌い方も捨てがたいが、
若い頃の 矢代亜紀の歌は絶品だ。
矢代亜紀ってこんなに歌が上手い って 初めて知った !
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