ピレネー山麓・フランス側も面白い!

2014年12月26日 (金)

バスクの「サンジャン ピエドポール」カンドゥとザビエルそして司馬遼太郎

「 バスク地方 」 は ’ スペインバスク ’ と ’ フランスバスク ’ に分けられますが

今回訪れたのは フランス側のピレネー山麓にある町 

「 サンジャン ピエ ド ポール St.Jean Pied de Port 」







01.       この町は 人口 1,500人ほどの 小さな町ですが 

サンチャゴ デ コンポステーラへ向かう 多くの巡礼者や観光客で賑わっている

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                               (  町への入口 ノートルダム門  )







02.   「 サンジャン ピエ ド ポール 」 は 12世紀来 ナバーラ王国の首都として栄え

1627年には 4つの砦からなる城塞 「 シタデル 」 が 町の北側に造られた。 



小高い山々に囲まれた、 いかにもピレネー山麓の要塞小都市らしい風景です

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03.     スペインの聖地 サンチャゴ デ コンポステーラへの巡礼が盛んだった頃、 

ここは 国境の峠へ向かう 険しい山道に入る前の 最後の宿場町でした。  



人々はここで英気を養い、 来るべき試練への 物心両面の準備をしたのです

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04.    今日でも 町の至る所に、 巡礼の象徴 ホタテの標識や看板が掲げられ、 

ドアノブ 水飲み場なども ホタテに姿を変えている。



町のあちこちに巡礼宿があり、 接待所には 宿の手配や様々な相談に応じる係員が常駐している

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05.     この町には 巡礼以外にも ちょっとした話題がある。   時は1925年、

イエズス会の宣教師 カンドゥ神父 Sauveur Candau という人物が日本にやって来た。 



彼はゼロから日本語を学び、 ’ 上質のユーモアを交えた完璧な日本語で ’ 「 カンドゥ全集 」なる 

全7巻の書物を著し、 宣教師としては 稀に見る才能を発揮した人物でした。




’ 柔らかく透き通った魂の持ち主であった ’ 彼は 日本と日本人を深く愛し、信徒からも非信徒からも

強い敬愛を集めたと言う。   そのカンドゥ神父が生れたのが この町だ。




(  彼、またバスクについては 司馬遼太郎の 「 南蛮のみち1 」 に詳しく書かれている。  )  

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06.     因みに 司馬遼太郎の取材旅行は 大変豪華だ。 出版社の編集部、通訳、運転手

画家、フォトグラファー 様々な人が彼に随行する。 もともと 彼には膨大な知識と学問と情報がある。 

それらが融合し 著された彼の本が 魅力たっぷりなのは当然のことかも知れない 




写真のように、 通りに面した古い家屋には  装飾のモチーフや ’ 私の小鳥 ’ とか ’ 愛の家 ’ 

などといった家の名前 建てられた日付 所有者の名前、 時にはその職業まで記されていることがある。

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07.    ところで、 この町にやって来たのは司馬遼太郎ばかりではない。 評論家であり

敬虔なカトリック信者だった 犬養美智子も カンドゥ神父の実家を訪ねている。 
 




バス停を降りた犬養美智子は さて、どうやって彼の家を探そうかと思案し あたりを見回す。

そして 最初に声をかけた老婦人が  たまたま ソヴール・カンドゥの姉だったのだ ! 




姉は驚嘆し 大喜びし、 城門そばの家に彼女を連れて行った。  その日は店を閉め 一晩中 

共に語り明かした。  因みに 犬養美智子は 長くフランスに暮らし 聖書の研究に携わって来た人で

言葉の壁は 全くなかったはずだ。

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                       (    情緒たっぷりな 二ーヴ川  la Nive   )







08.    さて、「 サンジャン ピエ ド ポール 」 にまつわる人物がもう一人いる。

フランシスコ・ザビエルだ。  なんと カンドゥ神父の家の向かい側に ザビエルの父方の家がある。




日本人にとって 余りにも有名なザビエルだが、 父方のルーツがバスクだったことは 驚きだ。


ザビエルの父は 長じてから イタリアのボローニャ大学で博士学位を取る。 その後ナバーラ王国の

宰相に上り詰め、 貴族の娘と結婚する。 その娘は二つの城を持参してくるような名家の出だった。



その ’ ザヴィエル城 ’ で生まれたのが 

「 フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier 」 だ。

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                                 (   バスクの特産品   )




ザビエルは フランス・パリで学問を修め、 そこでロヨラらと共に イエズス会を結成する。 

その会の活動に 深く関わっていたポルトガルの支援で 宣教の旅に出る。
    



大航海時代  アメリカなど東半分を支配領域としたスペインに対し、 アフリカやアジアなど 西半分を

テリトリーとしたポルトガルが後ろ盾だったことから、 ザビエルは インドのゴアを手始めに 

マカオを経て、 日本にまでやって来たのだ。






09.      城門内で 私は プレートを手掛かりに 必死でカンドゥとザビエルの家を探した。   

そして 家の壁に掲げられたプレートを発見 ! 「 ここにフランシスコ・ザビエルの父方の先祖が暮らした 」




写真奥の 城門にひっついた家が ザビエルの父方の家、 画面左側が カンドゥ神父の実家だ。

家は 結構新しくも見えるが、 白壁を剥がしたら 古色蒼然としているに違いない ・・




洋品店に入り、カンドゥさんのおうちですか~ と尋ねたところ、 そうですよ~ と笑顔で返事が来た。

司馬や犬養のように 居室に通され、話が発展するはずもないが、   

私は 家を見つけただけで 静かな感慨を覚えた。

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10.    ところで 私達が慣れ親しんでいる 「 ザビエル 」 という呼び名も 発音は国により

マチマチだ。  シャビエル、 サヴィエー、 ハビエル、 クサヴィエル、 シャヴェーリョ などなど ・・



近代国家が カッチリ形成される前、 世の中は 豪族や王家単位、宗教勢力単位で 流動的に動いていた訳で、

ザビエルの生い立ちにも バスク、ナバーラ、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルなど 数々の

国と地域が登場する。   どれが正しい発音か、という議論は 寧ろナンセンスなのかも知れない

 

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11.     さて、 司馬遼太郎一行は サンジャン ピエ ド ポール なる バスクの町について、

急傾斜の牧草地と羊の群れに囲まれた うら寂しい小村を思い浮かべたらしく、 

ホテルを予約しようとは思わなかったそうだ。



私は 幸い ホテル・ピレネーという よいホテルを予約しておいた。 今日のインターネットのお蔭だ!





朝食時一緒になったマダム達は ボルドーからやって来て、 もう2週間も滞在していると言う。

滞在費がかさむのよォ~ と ぼやいていたが、 お洒落度から推しても 相当な金持ちマダムだと思う。

このホテルの マシュマロが 事のほか美味しくて マシュマロ談義となった。




ボーイさんに お土産に売ってくれないかと聞いたところ 売ってはいない、との返事だったので

朝食のテーブルに エクストラで出してもらった。  外側のカリカリが 絶妙で個性的だった !

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12.      私は、 サンジャン ピエ ド ポールを出たのち、  パンプローナを経て

ナバーラ地方の ザビエルの生まれた 「 ザビエル城 」 に 行ってみた。  



そして、 ザビエルって こんなお城の王子様だったんだ~ と 驚いた。

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” 川の流れは絶えずして しかも 元の水にあらず ・・ ”   




辺鄙でド田舎のバスクの旅のはずでしたが、  思いのほか、 様々な歴史の流れが 

滔々と交錯する 不
思議な地域でした。



いろいろの感慨にふけりつつ、   サンジャン ピエ ド ポールの 二ーヴ川

その落水を しばし 見続けました ~ 

2014年12月12日 (金)

「バイヨンヌ」波乱のスペインバスク、美食のフランスバスク

” バスク ” と言えば 真っ先に 過激な民族闘争が思い浮かびます。  が、



ピレネー山麓に広がるバスクの風景は 美しく豊かで、   ’ 普通の ’ 生活が

当たり前のように 流れておりました








01.    フランス南西部のバスク地方にある 「 ビアリッツ Biarritz 」 は 大西洋の

ビスケー湾に面する 保養施設が整った国際的なリゾート地。  


海岸には遊歩道 Les Promenades
が敷かれ、 

花咲き乱れる通りを 潮風に吹かれて散策すると リッチな気分になる

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(  遊歩道の突端には マリア像が立っている 乙女岩 Rocher de Vierge がある  )







02.    ビアリッツは 100年前までは 一寒村に過ぎなかったが、 ナポレオン三世が

皇后ウージェニーに 離宮を建設し、 当時の有名人たちをも引き連れて来たことから 

一般的にも人気となり 一気に有名なリゾート地となった。



イギリスのヴィクトリア女王やエドワード7世も長期滞在したと言う

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03.    フランスの南部、 地中海とは雰囲気がかなり違い 男性的な豪快さが感じられます。

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04.    さて こちらは ビアリッツの隣町、 「 バイヨンヌ Bayonne 」 


バイヨンヌは 昔から バスク地方の重要な町の一つでした。     ところで、 バスクには

” フランスバスク ” と ” スペインバスク ” があるのをご存じでしょうか。



もともと一つの地域だったものが 
1659年のピレネー条約で フランスとスペインに分かれましたが、 

当時はまだ 国そのものが今のようにはっきり線引きされていた訳でなく、

長く バスクはバスクのまま ピレネーの一地域として 存在して来ました。




近代国家が形成されてから、 二つの地域は はっきりそれぞれの帰属国に編入されましたが、

フランスバスクは  波乱万丈のスペインバスクに比べて 

民族闘争の気運も低く 比較的穏やかな都市生活が営まれてきたという訳です。

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05.    雨模様で川が粘土色だ !  ほぼ同じ時期の 聖地ルルドの青く澄んだポー川との違いに驚いた。




ところで、バイヨンヌは 大西洋からアドール川 L’Adore を 8km ほど内陸に遡った港湾都市。   




世界の海には 船底にとり付いて 木材を食べ穴を開けてしまう ’ 船食い貝 ’ なるものがいるそうだが

帆船が木造だった時代、河川の 海水が攻めて来ない淡水の個所に停泊させることで それを退治出来たという。


ヨーロッパの多くの港が わざわざ内陸部に造られたのには そういう理由もあったのですね。

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06.     さて、一方 スペインバスクの方は 1936年には自治憲章が公布されたものの、翌年には

バスクの自治の象徴であるゲルニカが 反乱軍と手を組んだドイツ軍に爆撃され、 フランコ政権下の内戦時には   

15万人以上のバスク人が難民となり、 バスク語の使用禁止や バスクの国旗掲揚の禁止などを始め

徹底的な弾圧の憂き目を見た。       それに抗して




地下に潜った勢力が組織した 「 バスク祖国と自由 EAT 」 が 激しいテロリズムを巻き起こし、   

バスクと言えばテロ、 という概念を 一般に植えつけるようになってしまったのです。 

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(  写真は 昔のバスク人。      山バスク と 海バスク があると言うが、 

バイヨンヌは海のバスクと言えるでしょう  ) 







07.     ところで、最近はあちこちの自治体が 独立を目指している。  < カタルーニャ > は

豊かな経済力で裏打ちされているが ピレネーにまたがるバスクはそうはいかない。 <    スコットランド > では



英語ばかりでなくゲール語も公用語として採用されているが、 バスクでは バスク語での教育は行われず

バスク語を話す人は 現在本当に数少ない。  長く同胞としてバスクを形成していた隣国 < ナバーラ > には 



1982年 独立自治州として バスクから出て行かれてしまった。  2000年代に入ると 

テロも下火となり、  あらゆる意味で スペインバスクの独立は遠くなったかのようです ・・・

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(    赤または緑の 窓枠・鎧戸が バスクの建物の特徴   )





08.    一方 フランスバスクは フランスとほぼ言語・文化を共有し 豊かな食文化を享受している。



真北のボルドーからは美味しいワインが産出され、バイヨンヌ郊外では 美味いフォアグラや生ハムが作られる。

海辺には高級リゾート基地が広がっている。    食文化が豊かにならないはずがありません!

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09.     バイヨンヌで人気のレストランでも フォアグラのテリーヌが 当然のように出されました。

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     蛇足ですが 銃の先に剣が付いた銃剣は 「 バイヨネット Baionette 」 と言う。



まさにここの地名を採ったものだ。 1640年バスク人が考案し 1703年以来 フランス歩兵隊が

使用して来た。  ’ 背中から銃先を突き出して歩く歩兵 ’ の絵や映画を 見たような気もするが ・・

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11.    幼い兄妹が余りに可愛かったので 写真を撮らせていただいた。  例によってフランスの

童謡を歌ったら すぐに仲良くなりました。     お勘定シートが入れられたケースは



ジュートと呼ばれる麻の一種で編まれたバスク独特の靴 ” エスパドリーユ ” のミニチュア版

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12.     さて、   翌日は スペインのサンチャゴデコンポステーラを目指して 
ピレネーの

山越えに挑む 巡礼者の背中を追いながら  次の町へ向かいました。  

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途中、   小柄でがっちりした バスクの墓標を見て、

慎ましやかで素朴な バスク人の魂を思いました ・・・

2014年12月 5日 (金)

「ルルドの奇跡」 18回のマリア出現に立ち会った少女ベルナデッタ

ピレネー山脈の北側、フランスの 「 ルルド 」 に 年間600万人もの人々がやって来るように

なったのも、  ベルナデッタと言う 貧しい暮らしの一人の少女が 全ての始まりでした







01.     ベルナデッタ・スビルー Bernadette Soubirous 1844~1879年 は

14歳の時、 1858年2月11日から 18回にわたり聖母と出会う。




彼女は ’ 写真に撮られたカトリック教会の最初の聖人 ’ でした。  つまりは 聖母の出現は

大昔のお伽噺ではなく、  既に カメラが普通にあった時代の出来事だったのです。

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02.    南にピレネー山脈を望むルルド、  足元ではポー川が大きく彎曲している。




現在はすっかり整備されているが、ベルナデッタの時代には 彎曲部の中洲には牧草が茂っていた。

薪を拾いに行ったベルナデッタは 川の浅瀬を渡る前 靴下を脱ごうとした。 その時 一陣の風と共に

白い服を着た輝く女性に遭遇する。  それが 初めてのマリア出現でした。

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03.    その彎曲部に 今は 「 巨大な地下礼拝場 」 が出来ている。 車椅子でも降りられる

スロープを辿って行くと、 あっと驚くようなシーンが広がった。 向こうの端が見えない程壮観な礼拝だ。

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04.    現在の立派な聖堂の足元の岩壁に 聖母出現の「 マッサビエルの洞窟 」 がある。



特筆すべきことは、 ここに聖母が出現したり奇跡が起こった時、ベルナデッタの傍に 多かれ少なかれ

必ず誰かがいたことだ。   一人の少女の妄想でなく、 多くの人の批判的な目や 検事や町長・医師 

新聞社や教会の 厳しい検証と言うフィルターをくぐり抜けて 今日に至ったと言えるのです。



写真の ルルド教区の主任司祭、 ペラマール神父も 彼女を審問したうちの一人だ。

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                                   (   聖水を飲むローマ法王   )







05.     ベルナデッタは マリアを ” あの人 ” と言っていたが  再三、名前を聞いて来るよう

周囲から諭される。 3月25日の出現の時、 その人は 「 私は無原罪の御宿りです 」と答えた。



ベルナデッタは意味がわからぬまま、「 ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ 」という言葉を

忘れないよう、途中 何度も何度も 反復しながら帰って来た。




学校でちゃんとした教育も受けられず、 標準的なフランス語すら話せなかったベルナデッタが 

” Que Soy Era Immaculada Councepciou ” と言う 

カトリック教義の言葉を知る由もなかった。   

それまで半信半疑だったペラマール神父は 驚愕し、その時 マリアの出現を信じたと言う。 

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06.     さて、こちらは現在の様子。  夜9時ごろから 「 行列 プロセッション 」が始まる




マリアの出現が教会から認定される前の時点で  既に、  

ベルナデッタが聖母から取り次いだ  ” 洞窟まで行列をしなさい ” という指示に従い、 当時の

’ 幼きマリア会の少女たち ’ が 手に手にろうそくを持ち 自発的にこの行列を始めていた。     

それが 今日の このような大行列の原型でした。

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07.     ところで、 2月25日の第9回目の出現の頃には、洞窟の前にはもう350人くらいの人々が

集まるようになっていた。   騒然たる雰囲気の中で ベルナデッタは  ” その人 ” の言葉に従い 



洞窟内で地面を掘ると、 最初は泥水が湧き出し そしてやがては清らかな泉の流れとなったという。

人々の目の前で 聖なる泉は流れ始めたのだ !

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08.    そして その泉が 早、衆目の面前で 幾つかの奇跡を起こす。  3月1日、2日、3日と

聖水を飲んだり浸すことで、 動かなかった右手が動くようになった、 瀕死の赤児が蘇生した、

失明していた目が見えるようになった という奇跡が立て続けに起った。  

(   そのうちの一人は  後に 司祭になっている   )


 
  

この時以来、聖水で病気が治ったという申告は 今日まで 7,000件を超えるそうだが、 

かなり厳格なカトリックの審議基準で 正式に ’ 奇跡 ’ と認定されたものは 66件だと言う。

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09.     さて 現在のプロセッション、 信者ばかりでなく、各地の修道院のシスター達も

参列している。  印象的だったことに、 誰もニヤニヤしたり、 照れる人はおらず 

歓びを抑えつつ 真剣な 誇り高い面持ちで行進していた。  行列は春から秋の初めまで 毎日行われるが

何日もルルドに滞在して、 毎晩参加し続ける人もいるそうだ。





儀式が終わると 長年の夢を叶え興奮し だれかれとなく握手したり抱き合う人々もいた。

脇で見ていただけの私も 抱き付かれて 面喰ってしまったが ・・ !

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10.      ところで ベルナデッタは 貧しい水車小屋の粉引きの家に育ったが、小麦の不作時に

職を失った父たちと 離散して暮らすようになる。 不遇の中で育った少女だったが もっと恵まれない

人々への思いやりは忘れることがなかった。 両親ももともと 善良で慈悲深い 真面目な人間であったらしい。





その上 ベルナデッタは 極貧の中に生活しながらも 衣服は清潔で その所作は美しく品位があったと言う。

聡明で美しい顔立ち、 その上病弱で 常に持病に悩まされるという 奇跡のヒロインとしては

正に打ってつけの少女を 神はお選びになったものだ !



贅沢で我儘、金持ちの上流階級の少女には 聖母は降臨しないのだろうか ・・・!?

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11.    その後 フランス全土で有名になったベルナデッタは 人々の好奇の目に晒されたり、

名士たちのインタヴューに煩わされた。    しかし、 ある神父の紹介で ブルゴーニュにある

ヌヴェール愛徳修道会に入り、 「 サール・マリー・ベルナール 」 という名前で修道女となる。




修道院には 持参金を持って入るのが習わしだったが、 ベルナデッタの持参品は、 一本の日傘と

手提げかばんだけだった。  修道院もある意味 学校と同じ側面があり、 授業料が必要だった。 

が、 彼女は無料の授業を受講し、さまざまな雑用や看護婦としての仕事に従事しながら学んだという。




特に 字の書けなかったベルナデッタは 習字に専念し、  後年は見事な文字を書くに至った。

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(  行進が終わると 再び町が賑わい、 こうこうと明るい店々は 稼ぎ時です   )







12.     しかし、病弱だったベルナデッタは 1879年 35歳という若さでこの世を去った。

今日 彼女の遺体は ヌヴェール Nevere の修道院に安置され ガラスケースに収められている。

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ヨーロッパでは たまにあることだが、 死の30年後に掘り起こされた彼女の遺体は 

匂うこともなく 腐ることもなく、 生前とほとんど変わることのない姿だったと言う。




ただ 顔と組んだ手が 軽く左側に傾いていた。  聖人の宿命だろう !  ベルナデッタの右胸から

肋骨が2本取り出された以外は そのままの姿でミイラとして保存されることになった。

むき出しになっていた顔と手から 直接型が取られ、蝋で作られたマスクが嵌められた。






こうして ベルナデッタは 美しいまま 人々の前で 永遠の命を生きているのです。 






・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆






貧しく字も書けない 一人の田舎の女の子が  今日のルルドの大繁栄をもたらしたとは

驚くべきことですが、     それだけ  彼女の信心は海より深く、

人間としての価値は空より高かった ということでしょうか ・・



奇跡を崇めると言うより、 小さき存在が こんな影響力を持つこともあるという史実に

感銘を受けた旅となりました。

2014年11月28日 (金)

「奇跡の聖地・ルルド」 巡礼者の世界は驚くことばかり!

スペインからピレネー山脈を越え、フランスに入り  ルルドにやって来ました。
 




'  巡礼地 ' には 歴史的に 流行り廃りというものがあるけれど、 欧州で 恐らく現在ナンバーワンの

巡礼地 「 ルルド Lourdes 」 は ある意味異次元の別世界、 さすがの私も 驚きの連続でした !







01.    カトリック本山が認定する ’ 聖地 ’ の基準は 相当厳格なものですが、 世俗的な隆盛を

極めるかどうかは 一般庶民からの人気が 重要なバロメーターでしょう。    




賑やかな街並みと 溢れる大勢の巡礼者・観光客を見て、 一目でルルドの繁栄ぶりが読み取れました

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02.    山あいの小さな村にすぎなかったルルドが  ある奇跡を発端に 一大宗教都市となったのは

19世紀の中頃で、  長いヨーロッパ史上では つい最近の出来事と言えそうです

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03.    聖域に入ると 立派な聖堂が現れました。     水平の陸橋を境目に

下が 「 ロザリオのバシリカ Basilique du Rosaire 」 ( 1889年 )

上が 「 チャペル レリック Chapelle des Reliques 」



入口の窪みに描かれた壁画は 金ピカで 如何にも財政が豊かそう !

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04.    さて、 まず その美しさに目を奪われたのが 

サンクチュアリを貫ぬく 「 ポー川 Gave de Pau 」



土手から溢れんばかりの勢いで走る エメラルドの早瀬は 如何にも聖域に相応しい清らかさでした ・・・

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05.    写真右手の 岸壁の洞窟で 1858年2月11日、 14歳の少女 ベルナデット・スビルー 

Bernadette Soubirous に  聖母が出現したことが 事の始まりです。




勿論 少女は初めから それを聖母だと思っていた訳ではなく、 聖母と認識されたのは 

18回の出現のうち 最後の方のことになる。

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06.    その洞窟から流れ出る泉水が やがて 数々の奇跡を生み、 今日でも このように

人々は 口に含み、 手足に降りそそぎ、 あるいは 体ごと聖水の桶に浸かったりする



ペットボトル持参の人も多いが、 私も 少量、はるばる日本まで持ち帰ったのは 言うまでもありません !

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07.    個人的にやって来る巡礼者も多いが、 こうして 世界各地の教会支部から 団体でやってくる

巡礼者もたくさんいる。  続々やって来る車椅子の列は 壮観であり、まさに別世界でありました。

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08.     さて、 ここが ” ベルナデットがマリアに遭遇した洞窟 ” だ。



一日 何千人訪れるのかはわからないが、 この洞窟前で 代わる代わるミサが行われる。 各地の教会の

” 講 ” を率いてやって来る神父さんの 一世一代の晴れ舞台に違いない。  信徒の心には  日頃の


説教以上に響くことだろう。   フランス語はもとより、 イタリア語 ドイツ語 スペイン語 英語、

そして 何語か聞き取れない 祈りの言葉が 代わり合って鳴り響いた

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09.    こうして見ると  マリア出現の洞窟の真上に 教会が建てられたことがわかります。



バシリカの側壁に掲げられた お盆のようなプレートには 世界各国の言葉でこう書かれている

「 行ってこの水を飲み あなた自身を清めなさい 」 ( 当然 日本語もありました )

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10.    蝋燭立てには ” ろうそくの明かりが あなたの祈りの時間を 長らえる ” とあった。




その隣にある施設が 「 沐浴場 Piscines 」、  コップで聖水を飲むだけなんて生温い。

もっと 心からの渇望を以って 真剣に神の奇跡に賭けようと、 全身で聖水に浸かる病人が大勢いる。




車椅子が便利になる前  日本でもリヤカーに病人を乗せた時代があったように、  昔の写真には

ベッドもろともやって来た 素朴ながら 熱い信仰心を持つ人々の姿が 収められている。



もちろん 今回 私が訪ねた当日も 沐浴場には 長い列が出来ておりました ~ 

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11.     教会の支部から来たと思われる人たちは 同じ色のスカーフを首に巻いている。



江戸時代の ’ 富士講 ’ ではないが、 一生に一度はルルドを訪れたいものと、 皆 貯金をしたり 

体調を整えたり、 どうしても不都合な場合は 人に願いを託したりと、 相当な準備があったに違いない

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                                (  左上は スコットランド人  )







12.     洞窟の泉ばかりでなく、 ポー川の流れで手足を清める人も多い。   前日の雨で 



近域の川は 真っ茶色の濁流と化していた。  単に地形の所為とは思うが、   ルルドの川が

余りに青々と澄んでいたので   さすがサンクチュアリと感嘆せずにいられなかった ・・ 

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この夜 広場を埋め尽くすプロセッション ( ろうそく行列 ) があった。 次回は  その模様と



ベルナデットの生涯について もう少し詳しく触れてみたいと 思います

 

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