バスクの「サンジャン ピエドポール」カンドゥとザビエルそして司馬遼太郎
「 バスク地方 」 は ’ スペインバスク ’ と ’ フランスバスク ’ に分けられますが
今回訪れたのは フランス側のピレネー山麓にある町
「 サンジャン ピエ ド ポール St.Jean Pied de Port 」
01. この町は 人口 1,500人ほどの 小さな町ですが
サンチャゴ デ コンポステーラへ向かう 多くの巡礼者や観光客で賑わっている
( 町への入口 ノートルダム門 )
02. 「 サンジャン ピエ ド ポール 」 は 12世紀来 ナバーラ王国の首都として栄え
1627年には 4つの砦からなる城塞 「 シタデル 」 が 町の北側に造られた。
小高い山々に囲まれた、 いかにもピレネー山麓の要塞小都市らしい風景です
03. スペインの聖地 サンチャゴ デ コンポステーラへの巡礼が盛んだった頃、
ここは 国境の峠へ向かう 険しい山道に入る前の 最後の宿場町でした。
人々はここで英気を養い、 来るべき試練への 物心両面の準備をしたのです
04. 今日でも 町の至る所に、 巡礼の象徴 ホタテの標識や看板が掲げられ、
ドアノブ 水飲み場なども ホタテに姿を変えている。
町のあちこちに巡礼宿があり、 接待所には 宿の手配や様々な相談に応じる係員が常駐している
05. この町には 巡礼以外にも ちょっとした話題がある。 時は1925年、
イエズス会の宣教師 カンドゥ神父 Sauveur Candau という人物が日本にやって来た。
彼はゼロから日本語を学び、 ’ 上質のユーモアを交えた完璧な日本語で ’ 「 カンドゥ全集 」なる
全7巻の書物を著し、 宣教師としては 稀に見る才能を発揮した人物でした。
’ 柔らかく透き通った魂の持ち主であった ’ 彼は 日本と日本人を深く愛し、信徒からも非信徒からも
強い敬愛を集めたと言う。 そのカンドゥ神父が生れたのが この町だ。
( 彼、またバスクについては 司馬遼太郎の 「 南蛮のみち1 」 に詳しく書かれている。 )
06. 因みに 司馬遼太郎の取材旅行は 大変豪華だ。 出版社の編集部、通訳、運転手
画家、フォトグラファー 様々な人が彼に随行する。 もともと 彼には膨大な知識と学問と情報がある。
それらが融合し 著された彼の本が 魅力たっぷりなのは当然のことかも知れない
写真のように、 通りに面した古い家屋には 装飾のモチーフや ’ 私の小鳥 ’ とか ’ 愛の家 ’
などといった家の名前 建てられた日付 所有者の名前、 時にはその職業まで記されていることがある。
07. ところで、 この町にやって来たのは司馬遼太郎ばかりではない。 評論家であり
敬虔なカトリック信者だった 犬養美智子も カンドゥ神父の実家を訪ねている。
バス停を降りた犬養美智子は さて、どうやって彼の家を探そうかと思案し あたりを見回す。
そして 最初に声をかけた老婦人が たまたま ソヴール・カンドゥの姉だったのだ !
姉は驚嘆し 大喜びし、 城門そばの家に彼女を連れて行った。 その日は店を閉め 一晩中
共に語り明かした。 因みに 犬養美智子は 長くフランスに暮らし 聖書の研究に携わって来た人で
言葉の壁は 全くなかったはずだ。
( 情緒たっぷりな 二ーヴ川 la Nive )
08. さて、「 サンジャン ピエ ド ポール 」 にまつわる人物がもう一人いる。
フランシスコ・ザビエルだ。 なんと カンドゥ神父の家の向かい側に ザビエルの父方の家がある。
日本人にとって 余りにも有名なザビエルだが、 父方のルーツがバスクだったことは 驚きだ。
ザビエルの父は 長じてから イタリアのボローニャ大学で博士学位を取る。 その後ナバーラ王国の
宰相に上り詰め、 貴族の娘と結婚する。 その娘は二つの城を持参してくるような名家の出だった。
その ’ ザヴィエル城 ’ で生まれたのが
「 フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier 」 だ。
( バスクの特産品 )
ザビエルは フランス・パリで学問を修め、 そこでロヨラらと共に イエズス会を結成する。
その会の活動に 深く関わっていたポルトガルの支援で 宣教の旅に出る。
大航海時代 アメリカなど東半分を支配領域としたスペインに対し、 アフリカやアジアなど 西半分を
テリトリーとしたポルトガルが後ろ盾だったことから、 ザビエルは インドのゴアを手始めに
マカオを経て、 日本にまでやって来たのだ。
09. 城門内で 私は プレートを手掛かりに 必死でカンドゥとザビエルの家を探した。
そして 家の壁に掲げられたプレートを発見 ! 「 ここにフランシスコ・ザビエルの父方の先祖が暮らした 」
写真奥の 城門にひっついた家が ザビエルの父方の家、 画面左側が カンドゥ神父の実家だ。
家は 結構新しくも見えるが、 白壁を剥がしたら 古色蒼然としているに違いない ・・
洋品店に入り、カンドゥさんのおうちですか~ と尋ねたところ、 そうですよ~ と笑顔で返事が来た。
司馬や犬養のように 居室に通され、話が発展するはずもないが、
私は 家を見つけただけで 静かな感慨を覚えた。
10. ところで 私達が慣れ親しんでいる 「 ザビエル 」 という呼び名も 発音は国により
マチマチだ。 シャビエル、 サヴィエー、 ハビエル、 クサヴィエル、 シャヴェーリョ などなど ・・
近代国家が カッチリ形成される前、 世の中は 豪族や王家単位、宗教勢力単位で 流動的に動いていた訳で、
ザビエルの生い立ちにも バスク、ナバーラ、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルなど 数々の
国と地域が登場する。 どれが正しい発音か、という議論は 寧ろナンセンスなのかも知れない
11. さて、 司馬遼太郎一行は サンジャン ピエ ド ポール なる バスクの町について、
急傾斜の牧草地と羊の群れに囲まれた うら寂しい小村を思い浮かべたらしく、
ホテルを予約しようとは思わなかったそうだ。
私は 幸い ホテル・ピレネーという よいホテルを予約しておいた。 今日のインターネットのお蔭だ!
朝食時一緒になったマダム達は ボルドーからやって来て、 もう2週間も滞在していると言う。
滞在費がかさむのよォ~ と ぼやいていたが、 お洒落度から推しても 相当な金持ちマダムだと思う。
このホテルの マシュマロが 事のほか美味しくて マシュマロ談義となった。
ボーイさんに お土産に売ってくれないかと聞いたところ 売ってはいない、との返事だったので
朝食のテーブルに エクストラで出してもらった。 外側のカリカリが 絶妙で個性的だった !
12. 私は、 サンジャン ピエ ド ポールを出たのち、 パンプローナを経て
ナバーラ地方の ザビエルの生まれた 「 ザビエル城 」 に 行ってみた。
そして、 ザビエルって こんなお城の王子様だったんだ~ と 驚いた。
” 川の流れは絶えずして しかも 元の水にあらず ・・ ”
辺鄙でド田舎のバスクの旅のはずでしたが、 思いのほか、 様々な歴史の流れが
滔々と交錯する 不思議な地域でした。
いろいろの感慨にふけりつつ、 サンジャン ピエ ド ポールの 二ーヴ川
その落水を しばし 見続けました ~