モネの色彩を育んだ町

2011年9月19日 (月)

モネの連作 「ルアン・ノートルダム大聖堂」



01. モネは 「睡蓮」ばかりでなく、
「ポプラ並木」 「積みわら」などの 連作を 描いている

中でも有名なのが  「ノートルダム大聖堂」(Cathedrale Notre-Dame)の連作

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02. モネは まず、 積みわらが、 光と大気によって 色彩を変化させる様子を捉えました



絵の構図としては 単に積みわらが そこにあるだけですが それが結果的には 

” すぐれて抽象的 ”と 捉えられ、

なんと モネは ’抽象画の祖’と 呼ばれることになったのです


抽象画のルーツが あのモネとは びっくりですね!

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03. 次に、モネは 1892年から94年にかけて 何度かルアンに足を運び、

40点余の 「ノートルダム大聖堂」の連作を描きました






95年には デュラン・リュエル画廊で 今は世界に散っている 連作を 全て並べて展示する機会を得ました

今では もう不可能な、 貴重な機会だったことでしょう  ・・

しかし、 当時は 作品を見て ただあ然とする者、 嘲笑する者もいて、 

すぐに理解されるはずもありませんでした

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私は 聖堂のすぐそばのホテルに泊まりましたが 聖堂の光の変化を捉えるには

一日ぐらいでは 到底無理でした~ !








04.  しかし、 さすがに ピサロ Pissarro は その質の高さと モネの意図をすぐ見抜き 感嘆の声を上げる

「連作は 総体として見られるべきで、1点づつ 散りじりに売られるべきでない」、とも言ったのです

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こちらは モネが描いた聖堂の 正面側ではありませんが、

私は こちらの ” 横顔 ”も 負けずに美しいと思いました~









05.    さて、モネは 大聖堂が  晴天、雨天、曇天 朝、昼、夕など 条件に応じて変化する様を

 

粘り強く  描き捉えようと 試みましたが     その姿勢を


自ら ” サント・ヴィクトワール山の連作 ” を たくさん描いているセザンヌ Cezanneも

「 他のどのような画家も実現したことのない 独創性がある 」と 褒めちぎっています

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06. これが モネが描いた 正面側、    足元までカメラに収まりません

 

広場が狭くて これ以上後ろに 下がれませんでした~ sweat01 

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07. 聖堂の足元は こんな感じです~   ↓


っで、モネは 実際 どこから描いたかというと、  広場の右端にある

現在は 観光案内所となっている建物の 2階からでした

大聖堂の光の変化が 一番美しく捉えられる アングルは やや斜め横側からだと

モネは踏んだのでしょう ! 

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08.   そこは 昔、 洋服や 下着( コルセットやペチコートなどを扱っていたのでは

と想像しますが・・)を 売る店で、

女性が試着中に出入りする ’ヘンなおじサン’だと、モネは嫌がられたらしい ・・・ sweat01

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右側の古い建物がそれ ( 画面向って左側に 大聖堂があります )

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脱線しますが、 フランス女性は バーゲンセールなどでは

アッと驚くほど 堂々と ( ある時は 人前でも )下着姿になって 試着する

特に 上流の女性ほど、特に 高級ブティックなどでは 人目を気にして 

” 下品に恥ずかしがったり ” しないもの ・・・

   


でもまあ、あくまで 女性限定の空間という 前提あってのことですから

男性たる ムッシュ・モネが 出入りしたら  嫌がられるでしょうね ・・



.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.







09.   さて、  蛇足その1

17C以来 「 ルアン陶器 」は 、その洗練を極めた表現で もてはやされて来ました

奥さま方、 お買い物はいかがですか~

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10.     蛇足その2   
 

初めに モネは抽象画の祖、と言う見方があると 書きました


本格的 ” 抽象画の創始者、カンディスキー Kandisky ” は ある時、

偶然 モスクワで、 モネのたった一枚の 「 積みわら 」に 出会う

その感動が どうしても忘れられず、 その出会いのお蔭で  彼は1896年、 

30歳にして 学者から画家へと 転身することとなったのです!



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”  「積みわら」には  これと言った主題とか 対象が あるわけではないのに、

見るものを あらゆる夢の彼方へと誘う ・・・ 

 

それは 色彩の力、「パレットの力」に他ならない ” と ・・・カンディスキーは言う

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こうして 抽象画の大天才 カンディスキーは まず モネによって目覚め、

その後 自らの芸術を 本格的に育んでいきました     天才同士は 呼応するのですね~~!



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次は 古今東西の 画家達の聖地 オンフルールに参ります
 

 

2011年9月15日 (木)

ペストの大流行 その時ルアン公国はどうしたか~


さて、  14世紀に起こった 恐ろしいペストの蔓延を、

ここ北フランスのルアンも 免れることはありませんでした




累々と積み重なる遺体を 何とか処理しなければならなかった公国は

埋葬と言うよりは、死体処理の為の アトリウム( 回廊墓地 )を作ったのです


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サン・マクルー アトリウム (Aitre St Maclou)こそ 現存する 中世の「死体置き場」として 

貴重な歴史の証人なのです



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01. ここは サン・マクルー教会前広場 ( Eglise St Maclou)

1348年に始まった黒死病(Grand Pest Noir) つまりペストの大流行によって、

ヨーロッパの人口の三分の一が 失われたという

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02.   ルアン市は 当初、 ここサンマクルー教会の墓地に 遺体を埋葬していたが、

後からあとから増える 遺体の山を 処理し切れなくなったのです !

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03.  そこで 1526年から1533年にかけて建てられたのが 

死体置き場(Charnier)としての 回廊(Aitre)

狭い入り口を抜けると、 四方を黒い木組みでとり囲まれた 回廊が現れます

かなり不気味でした~!

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04.    柱という柱に 骸骨のレリーフが彫られ、 大腿骨、頚骨、スコップ、剣、棺桶、

砂時計、ロウソク、釘、鞭、十字架などの彫刻が  建物を一周する

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05.    さて、回廊というだけに、当初は1階部分は 窓ガラスはなく、

石の柱が連なる 吹きさらしの廊下でした

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ペスト大流行当時、  山のように積み重なる遺体は 簡素な布に巻かれただけで、

だれ彼構わず ごちゃごちゃに 回廊床の共同穴に 放り込まれました

それでも 遺体の数は 墓のキャパシティをどんどん上回る !


穴の中の遺体の肉が 一刻も早く腐り、骨になるよう

強い熱(仏語では chaud vive、具体的にどういうものかは不明) を用いて 腐食を促進したらしい

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06. そうして 肉が落ち骨だけになると、 墓掘り人はそれらを取り出し、

上の階の天井から屋根裏まで、順番に ぎっしり骨を並べて行ったのです!

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今日あちこちで目にする ” カタコンベ ” の骨も、 墓から掘り出した骨を

長い時の流れを経て きれいに組み合わせて積んでいったもので

最初から ああだった訳ではありません・・

緊急を要した このルアンのアトリウムの場合とは 事情がだいぶ異なりますが・・・

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07.   死者と生者、ここでは骸骨と聖職者が踊る 

「 死の舞踏( Dance Macable ) 」 も 左側の柱のデザインに 見られます

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08.   16Cになると  ここは墓でありながらも 貧しい少年たちの学校になり、


18Cに骨が他へ移されると、 若い女の子たちの寄宿舎にもなりました

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現在では ルアン市が買い取り、 
学生180人が集う 美術学校となっている

学生達の芸術的インスピレーション、 さぞかし どんどん沸くことでしょうね~   ^&^


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ところで、この入り口脇の 汚れて曇った小窓、    両手で光を遮り中を覗くと  

何やら 動物のミイラが見えました~

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09.     気が付く人は少ないのですが・・・   何のミイラかわかりますか~~

壁の中から発見された中世の動物だそうですよ  500年の長い歴史で 何度も改修作業があった

でしょうが よく残りましたね!

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10  不思議なムードにすっかり酔っ払って 現世に!戻ったところ、

現世の建物も なにやら傾いているではありませんか~

この窓辺の ” 実に巧みな 傾斜の 帳尻の合わせ具合 ” 見てください!

ママも 我が子を抱きながら 傾きのバランスを取っていますね ~~    ^&^

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先ほどの 「ミイラ」   答えは「ネコ」でした~

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次回は モネの描いた ルアンの「ノートルダム大聖堂」です

2011年9月11日 (日)

ジャンヌダルクが火刑に処せられた街 ルアン

今を遡る580年前、かのジャンヌ・ダルク Jeanne d’Arc が

 
火あぶりの刑に処せられたのが、 ここ ルアン Rouen




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01. ルアンは パリの北西 80km、 セーヌ川に面した街

ローマ時代から海運都市、ノルマンディ公国の主府として栄えてきました

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(   サント・カトリーヌの丘から望むルアンの絶景   )






02. 処刑場のあった広場、<旧市場広場 Place du Vieux-Marche>

今や、華やかな街角です~

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03. これが 晒し台の台座、 この上に薪を積んだのです

英仏百年戦争のさ中、フランスを奇跡的な勝利に導いたジャンヌダルクだが、

審問で
 異端転向者として有罪判決

1431年5月30日、19歳という若さで 生きながら火刑に処せられた

魔女裁判の犠牲となったジャンヌの悲劇を偲び、参拝し、花を手向ける人々が 今日でも絶えない

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04.    彼女の名誉回復が宣せられたのは その25年後、

 

広場には 「名誉回復の十字架」↑(写真03)と、

現代的なデザインの「ジャンヌ・ダルク教会 Eglise Ste-Jeannu d'Arc」が建てられている

 


この教会は  見る角度で 形が全く違って見えるのです

屋根の一部が 尻尾のように 長くたなびいています~

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05.    教会の隣には 市場がありますが

サクランボは1kg 3.8ユーロ   アブリコットは2kgで 4ユーロ

 

2ユーロで パイナップルなら2個、フランボワーズなら3箱、メロンなら2個、買えますよ~

 

物価としては 日本と比べてどうでしょうか・・   cherry    apple

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( 肉切り包丁 )







06.    木骨組みの家が建ち並ぶ 旧市街

この傾き具合は まさに芸術品!

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07. < 葬儀屋 >の石柱、横から見るとこんな感じ・・

 

「大理石の墓石」 「葬儀互助会」 などの文字が見えます

誰にでも訪れる 秋の(人生の)夕暮れ・・・  そういう職業があるのですね 

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08.  大時計は14C, 門は16Cのもの

 

この大時計通り Rue du Gros-Horlogeは、両側に レストランや店が建ち並ぶ 歩行者天国

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09.     大時計の真下 昼歩くのもよし、 夜くぐるのもよし、

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10、     夕食は ジャンヌダルク広場のレストランで いただきました~

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ルアンRouen 散歩、 次回も続きます

2011年9月 7日 (水)

モネの睡蓮の池は 想像以上!



ジヴェルニー モネの庭は想像以上に美しかった!

( 有名過ぎて 正直 あまり期待してなかったのですが ・・  )

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01.  日本池( Pont japonais )は   

モネが 浮世絵などを参考にしながら   東洋の雰囲気を具現化しようと 

タケ、イチョウ、カエデ、牡丹、ユリ、シダレヤナギなどを植え、

丸みを帯びた日本風の橋まで架けて、 やっと作り上げた モネ渾身の作品です

 

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02.   
睡蓮は フランス語で ニンフェア(les nymphéas)  そう、 あの

沼・川などに住むという 美しい少女の精霊 ’ニンフ’という意味で、

 

モネは 初めから 睡蓮の絵そのものを 描く積りだった訳ではなく、

 

ただひたすら水面を眺めて
 

「 私のニンフを理解しようとしただけだ 」 と 語っています

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03.  セーヌの支流 エプト川から水を引く リュ( Rue )と呼ばれる水路

水の流れが 結構速く、 清々しく魅力的な 一画で 私はことのほか気に入りましたよ~!

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04.  ところで、モネの庭は、彼の死後、長く荒れ果てたまま放置されておりました

 

唯一 長く生存した息子 ミッシェルは 家屋・庭・浮世絵など相続したものの、 

それらに興味を示さず、   アフリカのサファリに熱を上げ、

 

結局 1966年 自動車事故死してしまう・・

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                              日本風の太鼓橋






05.  「 クロード・モネ財団 」が、    長く ほったらかしにされ

荒れ果てた庭、朽ち果てた日本橋、ねずみの巣穴だらけの池の土手、
 

それらを改修整備、 10年の歳月をかけて 開園に漕ぎ付けたのが 1980年



 
ですから  観光名所としては 結構新しいのです~

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06.  さて、モネが 浮
世絵の 大コレクションを持っていることは 有名ですが、 

気になることがありました

 

まず、展示作品は多分、コピーでなく 本物だと思うけど、

絵画の中で 最も劣化しやすいのが 紙に刷られた版画

燦々と日差しが照りかえる室内、 ” 日焼け対策 ”は講じられてるのだろうか?




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それから ゾロゾロ列をなして 室内に入ってくる観光客、 

その中で 浮世絵に目を留める人はほとんどいなかった、ということ ・・  

日本人としては なんとなく 寂しくは思ったのですが、 考えてみれば    


当時の 西洋芸術が どれだけジャポニズムの影響を受けたかな
んて

知っているのは ほんの一握りの知識人だけでしょうし
・・・

モネの家の浮世絵が せめて 長く大事にされて欲しいと ただ 心で祈りました~

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07.  さて、日本人、と言えば、 ここジヴェルニーに 晩年のモネを 多くの日本人が訪ねている

 

美術商の林忠正、「 松方コレクション 」の松方幸次郎 などが有名ですが、

その幸次郎を モネに引き合わせたのが 銀行員だった黒木三次

 

写真は その妻 黒木竹子( モネに気に入られていたという )、   

白いドレスが モネの妻アリス、   丸顔で穏やかな人柄が垣間見えますね

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08。   ところで、 アリスですが、 ジヴェルニー (Giverny)に 引越してきた時は、 

まだ モネの妻ではなく、 オシュデの妻でした


百貨店や画廊を経営していた モネのパトロン オシュデ( Hoschede )は、

モネの 不評だった絵、 「 印象日の出 」を 高額で買い取ってくれた人物だ・・

しかし、破産したことで、今度は オシュデが モネを頼ることになる




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しかし、破産したオシュデが 遁走し、 モネの家族4人と、オシュデの妻子8人 総勢12人は


パリを離れ、田舎町 ヴェトゥイユ (Vetheuil)に 移り住むことを 余儀なくされる

生活は困窮を極め、  特に モネの妻 カミーユは 子宮癌で 長く病に臥しており

実際上 8人の子供達の面倒を含め、 あらゆる家事をこなしたアリスこそ 

紛れもない モネ家の主婦だったのです!

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  死の床のカミーユ  )

結局 妻カミーユは 死去する     

モネは 質屋に入れていたカミーユのぺンダントを 友人に無心して取り戻し、

32歳という若さで逝った カミーユの首にかけてやった ・・・

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09.   アリスとモネは およそ10年の同居の末、

前夫オシュデが他界した1年後、1892年 やっと正式に結婚する
 

 

モネの長男と アリスの次女の結婚、 「日傘の女」のモデル、アリスの三女シュザンヌの急逝、 

モネの病気、などなど いろいろあったが、 

ジヴェルニーで アリスは その後 幸せな結婚生活を送ったという

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   左端上が モネとアリス

 






10.  無名のまま また 貧困に苦しみながら亡くなる画家が 多い中

モネは 存命中に名声を得て、しかも86歳まで長生きし、多くの傑作を世に残すことが出来たのだ

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こんな美しい庭を インスピレーションの源として、、、、

まさに ニンフたちのご加護があったに違いありませんね~





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次回は モネが 光の変化を追った 「 ルアン大聖堂 」 がある ルアン Rouen 

の街中を ぶらぶらします~

2011年9月 3日 (土)

モネの庭 ジヴェルニー

1883年、43歳の クロード・モネ (Claude Monet)は 

パリ北西50km、セーヌ河畔の ジヴェルニー(Giverny)に
引っ越してきた

その約10年ほど前、 第一回印象派展に <印象日の出>を出品、

それから、 彼は  新しい時代の寵児として 多くの作品を生み出していく
 



  

spade      sun      spade






01.  モネが引き連れて来た家族は、 先妻カミーユとのあいだの2人の子  そして

破産したあと 家族を捨てて逃亡したモネのパトロン、オシュデの妻アリスと 

その6人の子供たちでした
 

 



アリスとは 後に再婚したため、 子供が 計8人、、 大きな家が必要だったのです~~

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                                         セーヌ河






02.  ジヴェルニーは ぶどう栽培が盛んな地域で、 

モネの ジヴェルニーの家も もともと葡萄の圧搾所でした

 

当初 7年間は賃貸という形でしたが、 

1890年に 22,000フランで土地・建物を買い取り、正式に彼のものになった 

 

とは言っても、買い取るまでにも 彼が好むように 増改築などしており、

今日のような厳格な賃貸でなく、 田舎風の大らかな貸し借りだったかもしれない・・

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         上、セーヌ河畔のジヴェルニー 下、セーヌの支流エプト川







03. クロ・ノルマン ( Le Clos Normand )と呼ばれる この庭は

初めは 林檎畑や菜園、 小道に桧などが植えられただけの 殺風景な場所でしたが、

 

モネは 絵描きでありましたが 、  プロの庭師と見紛うほどの情熱で

自分好みの カラフルな庭に仕立て上げたのです

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04.  さて、私がモネの家に到着すると、既に 長~い行列 !

さぞ たくさんの日本人が来ているだろうと思いきや、 
ほとんど全てが ’ 西洋人 ’



  
モネ好きは 日本人ばかりではなかった、と 妙な安堵感!

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05.   オレンジ系の花畑

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06.   1886年には 第2アトリエ(写真)、

 
第一次世界大戦のさ中 1915年には そこで有名な ”蓮池”の 大作を描いた 

第3アトリエを 建てている

 


( 22mx12mと 広くて実用的だった第3アトリエですが

モネは 外観が醜いからと、本当の所は あまり 気に入らなかったらしい )

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07.   ピンク・紫系の花畑

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08.   建物の窓も階段も 庭のベンチも グリーン

次回紹介させていただく 蓮池に架かる ”日本橋 ”も グリーン、

 

庭全体に 花以外の 余計な色を出したくなかったのでしょう・・

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09.   モネが住んでいた当時のままのサロン、 

 

今は大勢の観光客が押すな、押すなと詰めかけています~!

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10.  どの部屋も、それぞれ 異なる美しい色で統一され、

いかにも印象派画家の家らしい 魅力的なコーディネイトです

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(  室内は カメラ禁止でしたので 絵ハガキなどから  )




こうした部屋の中を 8人の子供たちが にぎやかに走り回ったのでしょうか・・
 

庭で飼育していた ニワトリの玉子や 育てた
野菜を手にして 

妻となったアリスが いそいそとキッチンに入ったのでしょうか・・

  chick                     apple

 

それから よくパリからやって来て ご馳走に与った友人達が、

ここで 談笑したのでしょうか・・

 

鍋やフライパン、 そして グラスや食器類 も 当時のものがそのまま置いてありました

  wine                       restaurant

お金に窮した時代もあったようですが それでも ここジベルニーでの生活は

まさに モネの美しい絵を生み出す 原動力となったことは 間違いなさそうです

 

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