黒田清輝と浅井忠 130年前の仏留学ってどんな感じ
パリの南東60km、「 グレシュルロワン Grez sur Loing 」は ロワン川に面した 穏やかな小村です
01. パリ近郊の 魅力的な地域の中でも 昔から アメリカ、イギリス、北欧などの画家たちが
この町に 芸術家のコロニーを作っていましたが、
近くの 有名な フォンテンブローやバルビゾンになくて、 ここにあるもの 、それが この” 美しきロワン川 ”でした
02. 切手にもなった「 湖畔 」という絵で有名な 黒田清輝(1866~1924)、
彼は 1884年から9年間 フランスに留学しましたが、
そのうちの 2年間を過ごしたのが ここ 「 グレ 」
03. 彼が渡仏したのが 若干18歳、 さすがに 遠く離れた異国から 日本へ
9年間に 相当な数の手紙を 書き送っていますが
薩摩藩士たる父親宛てには お金の催促を含め ほぼ漢字で、
母親宛てには ほぼ平仮名で、 優しく生活の様子を伝えている
驚くことに、グレには 「 黒田清輝通り Rue Kuroda 」がある
知らないと 通り過ぎてしまいそうな 石畳の細い道です~
この小道を行き来する 黒田の心には 異国の生活を 努力で切り開いた満足感と
切ない望郷の念が いつも 渦巻いていたかも知れません・・・
04. 当初 黒田は 川べりのホテルに滞在していましたが、
部屋代の他 食費やモデル代なども 相当かさんだため、 部屋を借りて自炊を始める
さらに、 フランス語に苦労する アメリカ人や英国人をしり目に 語学の達者な黒田は
村じゅうに たくさんの知り合いを作り、 生活上の様々な便宜を 彼らから上手に引き出したという
海外で生活する上では 単なる語学力ばかりでなく そのような 総合的な 「人間力」というものが
必要なのかも知れません
( グレでの傑作 「読書」 )
05. 「近代洋画の父 黒田清輝 ここに暮らす 」 彼が暮らした家の門には
こんなプレートが掲げられていました
グレでの 彼の住まいは 実は 母屋の隣にある ” 物置 ” で、
寝室、台所、アトリエとして不便はなかったが、 トイレに大変不自由したという
原則、トイレは 近所に借りに行ったが、いつもいつもと言う訳にもいかない
外にスケッチに出た時、藪や木陰でしゃがんで 用を足す
夜の暗闇の中も、雨や雪の時も 傘をさして場所を探す ・・・
こういう事が まぎれもない 「 人間力 」というものかもしれません !
06. 「 婦人図 ( 厨房 )」 「 編み物 」
黒田の借家の持ち主、 マリア ・ ビヨー Maria・Billaut 姉妹 をモデルとした傑作
さて、 黒田清輝以降、 多くの日本人画家が グレに滞在しました
岡田三郎助、児島虎次郎、安井曾太郎など 枚挙にいとまがない
07. 中でも特筆すべきが 「 浅井忠 (1856~1907) 」でしょう
東京美術学校の教授だった 44歳の浅井が フランスに渡ったのが1900年、パリ万博の年
彼は 若い頃 東京の美術学校で イタリア人画家フォンタネージに師事し
” 自然を師とすべし ” という理念のもと、 日本の農村などに取材した
” 茶褐色をベースとした ” 滋味あふれる風景画を 描いていました
( 浅井忠 「グレの教会」)
08. ところが フランスから帰国した 黒田清輝が 東京美術学校西洋画科教授となり、
フランスで獲得した 明るい外光派の画風を披露すると、 若い画学生は 雪崩を打って 黒田になびいてしまう
日本の洋画界に 性急な交代が起こり、 浅井忠は 教授として 挫折の憂き目を見る
以後、黒田は「 新派 」 又は「 紫派 」 浅井は「 旧派 」 又は「 脂派(やに派) 」 と呼ばれ、 (注)
何かにつけて 比較されることになったのです
( 「 グレの橋 」 )
09. しかし、浅井にとっても 2年間の フランス留学は 大いなる刺激となったことは 間違いありません
とりわけ 半年余のグレでの制作の期間に 明るく軽妙な記念碑的作品を 数多く生み出し
” 自らの芸術の絶頂 ”を 極めたのです
中でも 不朽の名作「 グレの洗濯場 」は ↓
深い緑の木立と赤い屋根、水面にこぼれては揺らめく 光の描写など、 大変魅力的な作品です
10. 私自身も ” ロワン川沿いの この洗濯場を見るために ”
わざわざ グレシュルロワンにやって来た訳ですが
ナマの風景は 浅井の絵よりは さすがに 明るく 現代的で 清々しい洗濯場で、
身も心も すっかり グレの緑色に染まって 大変幸せでした~ !
11. 帰国後 浅井忠は 東京ではなく ただちに一家揃って京都に移住する
そして「 関西美術院の院長」 として 関西の洋画壇の発展に 全身全霊を注ぎ、
以後関西からも 多くの優れた洋画家を輩出する
現在でも 弟子たちが献じた 京都南禅寺内の彼の墓には いつも明るい陽光が降り注いでいるという
「 黒田清輝 」と比べて 「 浅井忠 」 の知名度は イマイチかもしれませんが、
日本画壇での 浅井の実績は 決して 見逃すことは出来ません
今日では 「 紫派 」 も 「 脂派 」も なく、 ” 黒田と浅井の等分の功績 ” が
欧米に肩を並べる 素晴らしき 日本美術の礎となったのは 間違いのないことでしょう
(注) 「 紫派 」 とは 影の部分を 紫や青で描いたことを 脂派の視点から 正岡子規が 揶揄したことによる
「 脂(やに)派 」 とは 褐色の色調の印象から そう呼ばれ、 脂派の絵は色彩感覚に乏しいものの、
溶剤に強く絵肌が美しく 耐久性に優れている
紫派の絵は 絵画を形成する技法より、画家の心持の表現の方に 重点が置かれ、
結果、 傷み易く 保存に問題が起きがちだともいう
どちらの側にも 基本的技術の問題がありながら、 それを克服しつつ、
個性豊かな 日本の近代絵画が育ち 発展してきたと 言えそうです ・・・