ゴーギャンには インディオの血が流れていた?!
ゴーギャンには 実際に インディオの血が流れていたか、
というご質問をいただきましたので、 追記させていただきます。
ゴーギャンの家系ですが、、
父親クロヴィス (1814~49) は オルレアンの農家出身の 新聞記者だったが、
家族を伴って ペルーに亡命する航海の途中、 無念の病死を遂げる。
母親アリーヌ (1825~67) は
サン・シモン主義 (注) に傾倒した 情熱的な 気鋭の女流作家で、
ペルー時代は インカ陶器を熱心に蒐集した。
祖母フローラ(1803~44) は 最も初期のフェミニズム運動の闘士で、
” 因習から女性を解放し、 抑圧された労働者が平等に幸福に暮らすことが出来る
社会 ” を目指して 活動していた。
現代ならいざ知らず、 19Cの女性活動家が一体どんなものだったか
想像もつかないが、 才色兼備のフローラは 社交界でも花形だったと言う。
( フローラを主人公とした小説 『楽園への道』 マリオ・バルガス=リョサ作
があるらしい。 )
( 左が 祖母フローラ 右が 母 アリーヌ )
このフローラの先祖が もともと スペイン・アラゴン地方出の貴族で、
植民地ペルーにおいて はるか昔から代々、ペルー総督を 務めた家柄でした。
俗に 男子は母親の影響を受け易いともいいますが、
これだけ華やかな母方の血ですから、 ゴーギャンは 才能と情熱にあふれたその血を
当然のごとく 濃厚に 受け継いだのではないでしょうか。
その上 ペルーで 原始的 かつ 激しく異彩を放つ インカ文明に包まれて育つうち、
幼きゴーギャンの体に インディオの血が 密やかに しかし 激しく脈打ちながら
流れ込んだとしても 少しも不思議ではなかったでしょう。
実際、ゴーギャンの家族は 長年の統治の間に、 スペイン人と 現地のペルー人、
それも ” 高貴な アステカ朝の血筋との混血 ” があったに違いないという
” ロマンティックな夢想 ” を 熱烈に信じ込もうとしていたのです。
ゴーギャン自身も その妄想に憑りつかれなかったはずがありません・・・ !
本当に ゴーギャンに インディオの血が流れていたかどうかは 別として、
ゴーギャンが 自らを ” ペルーの野蛮人 ” と呼び、
生涯を通して、 未開なるもの 未分化で根源的なもの を求めつつ
結局、 タヒチで その人生と芸術を終息させたことこそ その何よりの答えだった
のはないでしょうか。
さて、 今回は あえて 白い肌の婦人像を 添付いたします 、、
( 「 夜会服のメット 」 1884 ゴーギャンの妻 )
( 「裸婦 シュザンヌ」 1880 自然なポーズで縫物をする女中)
( 「 セザンヌの静物画の前の婦人像」1890 )
絵画に続き、 こちらは 現代の! ポンタヴェンのご婦人、
息子さんが かつて、京都在住だったそう。
日本びいきの 満面の笑みを浮かべながら 話しかけて下さいました~
以上で ブルターニュの ゴーギャンの旅 は 終わりです ~
(注)
サン=シモン主義とは (ウィキぺ より)
社会の重要な任務は 富の生産を促進することである。
したがって物を生み出す産業階級は 貴族と僧侶よりも重要な要素である。
この生産を営む階級の重視が、サン=シモン主義だということ。
因みに、 サン・シモンは 「 50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人
・職工 の不慮の死は取り返しがつかないが、
50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は 容易に満たすことができる 」
との言葉を公にし、 1819年に告訴されている。