ゴーギャンのブルターニュ

2012年1月10日 (火)

ゴーギャンには インディオの血が流れていた?!

ゴーギャンには 実際に インディオの血が流れていたか、

というご質問をいただきましたので、 
追記させていただきます。

 

                       


ゴーギャンの家系ですが、、 

父親クロヴィス (1814~49) は オルレアンの農家出身の 新聞記者だったが、

家族を伴って ペルーに亡命する航海の途中、 無念の病死を遂げる。

 


母親アリーヌ (1825~67) は

 
サン・シモン主義 (注) に傾倒した 情熱的な 気鋭の女流作家で、
 

ペルー時代は インカ陶器を熱心に蒐集した。


  

祖母フローラ(1803~44) は   最も初期のフェミニズム運動の闘士で、
 

” 因習から女性を解放し、 抑圧された労働者が平等に幸福に暮らすことが出来る

社会 ” を目指して 活動していた。



       
現代ならいざ知らず、 19Cの女性活動家が一体どんなものだったか 

想像もつかないが、
 才色兼備のフローラは 社交界でも花形だったと言う。  


( フローラを主人公とした小説 『楽園への道』  マリオ・バルガス=リョサ作 

があるらしい。 )

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                    ( 左が 祖母フローラ     右が 母 アリーヌ )



このフローラの先祖が もともと スペイン・アラゴン地方出の貴族で、 

植民地ペルーにおいて  はるか昔から代々、ペルー総督を 務めた家柄でした。





 俗に 男子は母親の影響を受け易いともいいますが、 

これだけ華やかな母方の血ですから、 ゴーギャンは 才能と情熱にあふれたその血を

当然のごとく 濃厚に 受け継いだのではないでしょうか。




その上 ペルーで 原始的 かつ 激しく異彩を放つ インカ文明に包まれて育つうち、 

幼きゴーギャンの体に インディオの血が 密やかに しかし 激しく脈打ちながら 

流れ込んだとしても  
少しも不思議ではなかったでしょう。

 

                       

 

実際、ゴーギャンの家族は 長年の統治の間に、  スペイン人と 現地のペルー人、 

それも ” 高貴な アステカ朝の血筋との混血 ” があったに違いないという

” ロマンティックな夢想 ” を  熱烈に信じ込もうとしていたのです。

 

ゴーギャン自身も その妄想に憑りつかれなかったはずがありません・・・ !

 

                        

 

本当に ゴーギャンに インディオの血が流れていたかどうかは 別として、 

ゴーギャンが 自らを ” ペルーの野蛮人 ” と呼び、 

生涯を通して、 未開なるもの 未分化で根源的なもの を求めつつ

結局、 タヒチで その人生と芸術を終息させたことこそ 
その何よりの答えだった

のはないでしょうか。





さて、 今回は あえて 白い肌の婦人像を 添付いたします 、、
 

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               ( 「 夜会服のメット 」 1884   ゴーギャンの妻 )

 

 

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        ( 「裸婦 シュザンヌ」 1880   自然なポーズで縫物をする女中)




17gauguin_paulportrait_of_a_woman_2

 

                ( 「 セザンヌの静物画の前の婦人像」1890 )





絵画に続き、   こちらは 現代の! ポンタヴェンのご婦人、 

息子さんが かつて、京都在住だったそう。     

日本びいきの 満面の笑みを浮かべながら 話しかけて下さいました~ 

18_2






以上で ブルターニュの ゴーギャンの旅 は 終わりです ~

                               

(注)

サン=シモン主義とは (ウィキぺ より)

社会の重要な任務は 富の生産を促進することである。
したがって物を生み出す産業階級は 貴族と僧侶よりも重要な要素である。

この生産を営む階級の重視が、サン=シモン主義だということ。

因みに、 サン・シモンは 「  50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人

・職工 の不慮の死は取り返しがつかないが、

50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は 容易に満たすことができる 」

との言葉を公にし、 1819年に告訴されている。 

2012年1月 2日 (月)

ゴーギャン 「黄色いキリスト」は左右が逆!(その2)

ゴーギャン 実在する「黄色いキリスト」(その1)の続きです

 

                                                      


07.           「 グロテスクな頭部を持つゴーギャン像 」
 

親指を口に入れ、妙な顔つきの 達磨によく似た焼き物、 

これはゴーギャンが抑圧された自分自身を表現したものだ。

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08.      「 黄色いキリストのある自画像 」 1889年

 

画面の左側に 黄色いキリスト が、 右側には  07.の グロテスクな頭部の焼き物が、 

そして 真ん中に自画像、 という構図 だ。

 

ゴーギャンは 自分の中に 聖なるものを求める 繊細な人間と

粗野なインディオの血が 混在していることを 自覚しており、
 

その狭間で葛藤する様を この構図で 象徴的に表現していると言われる。

08_2




ところで よく見ると キリストが元絵とは 左右が逆になっている。

 

” 鏡を見て描いたから ”、 というのが 定説になっている。 

しかし、 ゴーギャンは あちこちで描いたものを アトリエで再構成する名人でした。

見たものを そのままにしか描けなかったゴッホと 喧嘩になったことは 有名な話。


キリストを左右逆に描くなんてことは 朝飯前だったでしょう。

 


しかも 右側の グロテスクな頭部 は 左右逆にはなっていない。

鏡に忠実なら こちらも逆のはずだ ・・

 

つまり、この混乱した構図こそ 自分を取り巻く 「 聖と俗 」の葛藤を際立たせる 

のに役に立つ、 と彼は考えたのかも知れない。

 

                             


さらによく見ると ゴーギャンの 左目は爛々と輝き、右目は失望と混乱で 

濁っているかのようだ ・・

それぞれの左右の目を アンバランスに描いている。        そして、

キリストもグロテスクな頭部も 目がアンバランスだ。  全て意識的な作業だろう。





 

09.      さて、これが礼拝堂にある 「 黄色いキリスト 」の 実物の木像で 

首は 向って左側に傾いている。

 

飄々とした作風だが、 それがかえって ゴーギャンに

強いインスピレーションを 与えたのかも知れない。

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10.      ゴーギャンは 座席のどのあたりに座ったのでしょう ・・・

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  ( 目が慣れるまで かなり薄暗い堂内でした。 暗いので 早々に立ち去ってしまう

人もいるようですが、 お出かけの節は 入り口に 電気のスイッチがあるので 

見逃しませんように!  )

 

 

 

11.    礼拝堂の裏側、  屋根に 階段があり、恐らく 鐘を突くためと思われる。

 

いかにも田舎風の 素朴な礼拝堂で、 大聖堂にはない 不思議な魅力に

すっかりとりつかれてしまいました。

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12.     ところで ゴーギャンは 政治活動していた父親の亡命に伴い、
 

子供時代 6年間 ペルーのリマで暮らした。
 

スペインの貴族出身だった母親の親戚の リマの大邸宅は 花や果物の香りが漂い、

南国風に華やかに飾り立てられていたという ・・
 
そして、  幼いゴーギャンは 褐色の肌を露わにした召使たちに 

それはそれは熱烈に可愛がられたという ・・


                              




後年 ゴーギャンが移り住んだタヒチの原形は 既に ここにあったと言えるだろう。

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ところで、 母親は リマで 素朴なインカの陶器を熱心に蒐集し、 

そのコレクションは ゴーギャンに 生涯を通じて 深い影響を及ぼした。

 

” 三つ子の魂百まで ” と言うが、 自らをペルーの野蛮人と呼んだゴーギャンの

人生観も 芸術も、 
その源流はペルー時代にあり、

彼が後に暮らした マルティニックや ブルターニュ そしてタヒチより 早く

リマの影響が彼の魂に宿ったのかも知れない。





 

14.      さて最後に マルティニック時代の絵を取り上げてみたい。
 

「 マンゴーの木の下で 」 1887年 

この絵からは もう既に 後のタヒチが透けてみえるが  実は、この絵の購入者は

ゴッホの弟、テオだった。

ゴーギャンのこの時代の絵に深く感銘したテオは、 自らのコレクションに加え 

その後も ゴーギャンを何くれとなく 支援し続けて行く ・・・

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ところで 蛇足ながら、 ゴッホが尊敬するゴーギャンを アルルに誘ったのは

当然だと 頷けますが、 ゴーギャンの方がその気になったのは 不思議なことです 

当時 ゴーギャンも少なからずテオの世話になり その人柄には充分接していたはずで

南仏の魅力もあっただろうが  恐らく、テオという 後ろ盾に対する 感謝と信頼、

経済的支援が あったればこその決断だったのではないだろうか・・・

 

声をかけられた多くの画家のうち ゴッホに合流しようなどという者は

当時 誰一人、いなかった訳ですから・・・

                         


オーベール・シュル・オワーズ Auvers sur Oiseで ゴッホの死んだ部屋を訪ね、

フィンセントとテオ兄弟が 並んで眠る墓に詣で、

その後ブルターニュの西の果て ポンタヴェンまでゴーギャンの足跡を追って来ました。




絵画好きには 堪らない旅でしたが  
感慨深いものもありました。

” つくづく、 画家の人生って 一筋縄ではいかないものだなあ ” っと。

                          

 

 

2011年12月28日 (水)

ゴーギャン 実在する「黄色いキリスト」(その1)

ゴーギャンが滞在した ポンタヴェンPont-Aven、 

その郊外に 「 トレマロ礼拝堂 Chapelle de Tremalo 」 がある。 

そこには 「黄色いキリスト」という作品に登場した本物の黄色いキリストの木像があった。

 

 

01.    ゴーギャンは 1888年に 「説教のあとの幻影」 を 描いている。


画面 右端の司祭から 天使と闘うヤコブの話を 聞きながら、
 

ブルターニュの素朴な田舎の娘たちが 心にその情景を思い浮かべている場面だ。

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構図などは 日本美術の影響を はっきり受けてはいるが、 美術史的には 

「黄色いキリスト」 と共に
  内面的な思想を 象徴的に表す絵画の始まりとして

重要な作品と言われる。






 

02.      さて、並木を抜けて 「 トレマロ礼拝堂 」 に やって来ると

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03.    素朴な石のチャペルが 紫陽花とともに ひっそりと待ち受けておりました。

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04.      日本の茶室の ” にじり口 ” ではないが、
 

小さな入り口、  やや屈むようにして 現世から 堂内に入る仕組みだ。

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05.        薄暗い内部は 素朴ながら 美しい設えで、

石造りであっても、 不思議な暖かさを 湛えておりました。

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( 数ある欧州の教会で、 信者でもない私が 
名状し難い 不思議な霊感に 

強く抱きすくめられたのは 
ポルトガル、マリアの奇跡で有名な 聖地ファティマ と

ここ トレマロの 2か所だけでした~ ~  )
 








06. 次の作品は 「 キリスト磔刑図 (黄色いキリスト) 」 1889年

 

ブルターニュの晩秋、 哀愁漂う黄色い丘を背に、 

はっきり祈るでもない うつろな目の農婦たちと 祈りもそこそこに 足早に立去る農夫。
 



中心に 十字架上で 一人 
殉教の意味を自問するキリストの メランコリックな姿、 

それらを 平面的なタッチで 象徴的に 描いている。

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この黄色いキリスト像の元になった実物のキリスト像が 
この礼拝堂にあるのです!

 

このあと  次回の 「 黄色いキリスト (その2) 」 に 続きます



                                

2011年12月21日 (水)

ブルターニュは ゴーギャン芸術の 揺りかご!

                                                       

ポール ゴーギャン P.Gauguinが ブルターニュ、

ポンタヴェン Pont-Avenにやって来たのが 1886年

 

5人も子供を設けた妻、メットとの生活が 既に破綻した後でした

 

                                                        




01. アヴェン川 L’Avenは 結構な急流で
ポンタヴェンの町に 流れ込んでいく

 

ゴーギャンの いわゆる ”ブルターニュへの逃避” は


 
パリ画壇の潮流への嫌悪も あったし、
 

素朴でプリミティヴな 当地の風景と人間への憧れも
あってのことでした

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02.コンカルノーに シニャックなどが来ていたように、

ここポンタヴェンにも 毎夏、多くの画家が やって来ていました

 

絵心をそそる風景が そこかしこにあったし、

 

民族衣装の働く女たちが 気軽にポーズを取ってくれるのも

画家にはたまらない魅力でした

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03. 生活費が安く、安心して暮らせる町 ポンタヴェン、

 

ゴーギャンは 当時 芸術家の溜り場となっていた

安宿の旅籠 「グロアネック」を 常宿としていた 

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( パンション(食事付き宿) グロアネック )

 

 

 

04. アヴェン川のほとり、 洗濯場 Lavoir

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05  ここにも 洗濯場が・・・

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06. ゴーギャンは その後 パリに帰るが、

作品は売れず 飢餓状態が続いたため、  

 

”砂漠のような”パリを離れて、 1887年、

今度は ” マルティニック諸島と パナマへ逃避 ”する

 

しかし、パナマ運河で働くも 僅か15日で解雇、

所持金も使い果たし

おまけに 赤痢とマラリアにやられてしまう

06





07 マルティニックで描いた エキゾチックな風物の絵の方は

 

ひょっとして パリの収集家の目に 新鮮に映るかも知れないと
期待するが

 

結局 見事に無視される!

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( 町の中心あたりの アヴェン川  建物は共同トイレ )

 

                                

08. 肉体と心と、満身創痍のゴーギャンを受け入れたのが

再びのブルターニュ、 ポンタヴェンでした

 

1888年、エミール・ベルナールなどと共に

 

「ポンタヴェン派」の画家として、
 

数々の有名な絵を描いたのは この頃です

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09.次に、有名な ” アルルでの ゴッホとの共同生活 ”に
踏み切ったのが 1888年の10月、

 

僅か3か月で 二人の関係は破綻する

 

狂気のゴッホに対して、 理性のゴーギャンと 言われるが

ゴーギャンにも 言いたいことは 山ほどあっただろう

 

その ザワザワと波立つ感情を 懐深く受け止めたのが 

またしても ブルターニュ

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( アヴェン川には 多くの水車があり
ここの風景を ゴーギャンが描いています  )

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10. さて、ゴーギャンは 1890年まで
 

ポンタヴェンで 数々の傑作を描き、 その後、

 

パリ生活を経て、いよいよ ” タヒチ ” へ向うことになる

10週間の船旅の後、タヒチに到着したのが 1891年6月

 

その後のタヒチでの生活は
 

多くの作品と共に よく知られるところです・・

 

                                 

ところで このアヴェン川は、 町を出てから

徐々に その川幅を広げ、


直線で約6km先 大西洋へ 洋々と流れ込む

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ゴーギャンに
 

画家魂を満足させる 豊かな画題を提供したのも ブルターニュ

 

傷ついたゴーギャンを 幾度となく抱きしめたのも ブルターニュ

 

ゴーギャンが タヒチという大海原の向こうに 夢を託すと

発想させたのも

もしかして、このアヴェン川だったかもしれません

 

                               



「 ポンタヴェン 」 こそ 

” ゴーギャン芸術の 揺りかご ” だったでしょうか・・・

2011年12月14日 (水)

「クレープ」と「ガレット」は ブルターニュが発祥の地 

ブルターニュ発祥の食べ物と言えば  「クレープ と ガレット」 ですが、

「クイネット Kouignette」も 忘れてはなりません

 

                                                         

 

 

01.   城壁で囲われた島 Ville close、コンカルノー Concarneauに有名な 「ショコラトリー」が あります

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( Maison Georges Larnicol )






02. ここで売られているのが 「クイネット」 

プレーン、アーモンド、アプリコット、塩キャラメル、サクランボ、チョコレート、レモンなど 味付けは16種もありますよ

 

どんなお味かと言うと・・・    しっとりした菓子生地が 渦巻き状に巻かれていて・・ 

日本では 西洋菓子のブームが 次々来てますね   「クイネット」も 候補の一つでしょうか~

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( 写真   上が クイネット、  下は メレンゲ菓子 )

 

 

03.      これ全て チョコレート    力作ですね~!

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04.     このお店のモットーは      「お菓子作り 技術は情熱なり」 

「セルフサービス」の貼り紙もあります

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05.       さて、 寒冷なブルターニュの土地は 痩せていて
 

ワインの代わりに 「シードル」が 作られ、小麦の代わりに 「蕎麦」が 作られて来ました

 

今日でも ブルターニュに足を踏み入れると、

ホテルやレストランから フランスらしい あの「 バゲット 」は パタリと姿を消す
 

(   もちろん いわゆる ” パン ” は出ますけど  ・・・  )

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( サンマロにて 露店のクレープ屋さん )

 



                         

06.   昔、 ブルターニュの人々は  蕎麦を 「蕎麦がき」 や 「粥」にして 食べていましたが 

ひょんなことから、それを 熱い小石 Galetの上で 焼いて食べると 美味しいことを 発見した

 それが、ブルターニュの名物 「 ガレット Galette 」 になった訳 !

 

ガレットは そば粉と塩と水だけで 生地を作り、

そこに ハムやチーズ 野菜、玉子などを乗せる 惣菜系の食べ物なのです

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07.    やがて、そば粉の代わりに 小麦粉を使い、牛乳 バター 玉子 砂糖などを

混ぜて 生地にしたものが 今日の 「 クレープ Crepe 」 となったのです

 

クレープは ご存じの通り、  甘いお菓子系と 塩味の惣菜系と、両方あります

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( 私は 写真のように マロンペースト、アップルなど もっぱら菓子系のクレープばかり 食べ歩きました! ) 






08.   ところで 「ガレット」は  もう一つ別なものを 指すことがあります
 

いわゆる ” 丸く平たい 焼き菓子のガレット ” のこと

 

そう言えば  モンサンミッシェルのお土産も ”ガレット ”  でした

 

                           



ゴーギャンが活動した町、ポンタヴェンにある 

この 「Traou Mad」 という店のガレットは とても有名で、お客さんもたくさん来てました~ 

08
 




09.     「 Traou Mad 」社のガレット、  「 ガレット ド ポンタヴェン 」 は 

イメージキャラクターに採用したゴーギャンの絵と相まって 今では 広く その名が知られています

 

                            


1975年には「Les Galettes de Pont-Aven」  という映画も作られていますが 

芸術的な意味で? 女性の美しいお尻を崇拝する アル中気味の画家の話で、 

いかにもフランス的な映画です~!

09







10.    ところで、「Traou Mad」は ブルトン語で 「良きこと」を 意味する単語らしい
 

10

Traou Mad社の この商標登録図は 

 

ゴーギャンが 1888年に描いた 「 ブルターニュの少女たちの ロンド(輪舞) 」 という絵です~

                            

日本でも お洒落な食べ物として  すっかり定着したクレープ、

 

本来は ブルターニュの 貧しい食糧事情から  発展してきたものだったのですね
  

 

                           

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