ゴッホの墓と麦畑
ゴッホと 深いかかわりを持った ポール・ガシェ (Paul Gachet)は
パリで開業していた医者だったが、 1872年、たまたまオーヴェールAuversにも 居を構える
彼は 精神病の研究も含めて、多様な分野で 経験豊かな医師でしたが、
同時に 画家でもあり、版画家でもありました
そういう訳で、 美しいオワーズ川のほとりに、 ガシェの信望者や多くの印象派の画家が
ゴッホが来る以前から より集まって来ていたのです
01. ゴッホの北仏へ戻りたいという 強い要望を受け、弟テオが
八方手を尽くして探し出したのが この<ガシェ医師>
たまたま体調が良かったこともあるが、
ゴッホ本人は 患者としてでなく ちゃんとした!友人として付き合い始めた(つもりでした)
実際、 食事に招かれたり、 ガシェの肖像画を描くなどして、
二人の関係は ほんのひと時、順調に滑り出した
ガシェ医師の家の庭 ガシェの邸宅
02、 しかし、アルルでのゴーギャンとの生活もそうだったが、
破綻はすぐに訪れる
面白いことに ゴッホの見立てがふるっている
「 ガシェは相当な変わり者だ、彼は少なくとも
僕と同じくらいひどいやつ(精神病)をやったに違いない
医者だからなんとか病気を 持しているけど、 相当頭がいかれてる! 」
うつろな目、ガシェの憂鬱さを強調して描いている 手には薬草となる花
03. セザンヌも 3回 (1873年から1881年にかけて) ガシェ宅などに滞在し、
100点もの作品を描き 才能を開花させている
絵は 有名な<首吊りの家>
04 当初、ガシェは何度か ゴッホを訪れ その制作ぶりをみている
ゴッホも 精力的に絵を描く
1ヵ月後に彼が自殺するなんて 誰にも思いもよらないことだった !
< 階段のあるオーヴェール村の風景 >
05。 ゴッホの転地は どうやら成功した、と思われたが、
ほどなく ガシェとゴッホは不仲となり
原因は不明だが、 ガシェは居留守を使って 彼を避けるようになる
ゴッホも 「 絶対 彼をあてにしてはならない 彼は僕より病気がひどい、
盲目が盲目を導けば 同じ穴に落ちる 」 と、 応酬する
<オーヴェールのヴュー>
06。 さて、 弟テオは生涯、献身的にゴッホを支えた、と 賛美されるが、
その ’献身’とは、一方では わが身を削ることと同じでした
テオにも人生があり、 妻と子・オランダの老母・妹達 支えなければならない家族は
山ほどいたのです ・・
経済的に楽であろうはずがなかった !!
しかしながら それでも、偏執的で独りよがり、発作を抱えた どうしようもない兄の
生涯にわたる 精神的拠り所であり続けたのです・・
テオ自身だって おかしくならないはずがありませんでした !!
< 薔薇とアネモネと日本の花瓶 >
07 とりわけ、テオが婚約、結婚して、 その妻ヨハンナが妊娠、男子が生まれると
二人の行き違いは 一層大きなものとなっていった ・・・
心の支え、命の綱、弟テオが 自分の手からすり抜けていく~~!
例えば、共に休暇を過そうと提案したのに、
テオは 妻の実家のオランダに行ってしまう (普通なら当たり前のことだが)
そんな些細なことでも ゴッホの心は 焦燥感で 激しくよじれる
08、 そんな中 最後の日々に描いたとされる < 烏のいる麦畑 >
黒いカラスの群れがかもし出す憂鬱なムードは
確かに死を予見させる 不吉な絵と 言えなくもないが、
深い青と黄色の補色の効果が きっぱりと力強く、
農道や麦畑のうねり、カラスの羽ばたきが 躍動感を漲らせ、 実にイキイキした傑作だとも言える
09 ゴッホの墓がある霊園
果てしなく広がるオーヴェールの麦畑の一角を 石塀で仕切った共同墓地の片隅に、
びっしりと蔦で覆われた ゴッホとその弟のささやかな墓がある
因みに、 有名になった後の<山下清>も ここを訪れており、
清は、ゴッホの墓より 他のきれいな墓たちに 目を奪われたと、語っている
10、 ゴッホの家は もともと精神病がうかがわれる家系ではあったが、
フィンセントの死後、なんと テオも 間もなく病が昂じ、
故国オランダ・ユトレヒトの精神病院に送られ、そこで死亡する
なんと、兄の死から 僅か6ヶ月後のことだった
実は フィンセントとテオ、二人の遺骨を ここに並べて埋葬したのは
テオの妻、ヨハンナだった
兄弟の書簡を整理している時、 ” 二人の絆がいかに強いか ”思い知らされた彼女は
フィンセントとテオ、 二人が共に眠るのが相応しいと判断し、
オランダから夫の遺骨を運んで来て フィンセントの傍らに安置したのだった
11、 ゴッホの死後、 今日のように 彼の絵が世に認められるようになったのも
ひとえに ヨハンナのお陰と言っていいかもしれない
ゴッホの作品が日の目を見る時まで、 バラ売りなどで散逸しないよう 手元に一括保管し、
ゴッホの奇行ばかりを取り上げる 無理解な世間へは 啓蒙に努め、
多くは一方的に 兄から弟へ宛てて送られた 数百通の書簡を整理、
日付のないものは判読し 正しい順に並べ換え、
24年がかりで 「フィンセントの 弟への書簡集」を刊行したのも ヨハンナでした
ゴッホ博物館庭
今日、世界中で知らない人はいないであろう < ゴッホ >、
その作品の魅力は 言わば ゴッホの ” 狂気の才能 ” から生まれ、
その人生の真実は 言わば 義妹の ” 冷静な思慮 ”から 守り・語り継がれることになった
と、 言えそうです
次は モネ編です~~