魅惑のパリ

2016年7月 1日 (金)

「フランスの洪水ビフォー・アフター」「ハンサム顔のビフォー・アフター」


5月~6月にかけて フランスやドイツを襲った洪水のニュースをTVで見るにつけ

世界のあちこちで起こる異常気象が気になるこの頃です。







01.     パリでは セーヌ川のプロムナードを水没させ、 いくつかの有名な

橋の足元を今にも襲いそうな濁流を見て 私はハラハラしたものでした。
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02.      しかし 深刻な被害は パリより南に下った地域に多く出たようだ。

ここは 第一回目のサミット会議が開かれた町 「 ランブイエ Bambouillet 」


慣れない手漕ぎボートに四苦八苦する警官たちの動画もアップされてました。

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          (   01. と 02.の写真は 情報サイトより   )






03.      さて  私の心配が的中したのが パリの南西27kmあたりにある 

「 シュヴルーズ Chevreuse 」 という町。       


長年の友人が住んでいて 一体どうなったか気になっておりました。

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04.      ごく普通のパリの郊外の町だが 緑地や住宅地のはざ間を様々な姿を

見せながら走る 「 イヴェット川 R. Yvette 」。  その風景は 本当に魅力的だ !

花の季節になると 岸辺を花で飾るコンクールも行われる。

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05.      蓮の葉が浮かぶ川面に面して 昔の洗濯場がある。

絵の題材としては 願ってもないロケーションで、 多くの画家が三々五々訪れる。

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06.      さて この石橋を渡って少し北上したところに、 住まいとは別に

フィリップ達の庭がある。

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07.      石塀に囲まれた百坪ほどの草地に リンゴやサクランボの果樹

バラや紫陽花が 点々と植えられている。  収穫のための庭というより 


遠くに教会や マドレーヌ城が見える まさにカントリー的な寛ぎの庭だ。

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08.       その庭がこんな有様だ !   イヴェット川が氾濫することは

たまにあるけれど 庭まで水に浸かったことは初めてだと言う。

正に 洪水による ” 庭のビフォー ・ アフター ” には 驚かされた。

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09.      ところで この庭は フィリップの母親ドニのものだ。 

ドニ一家は 長くパリに住まい、 夫のリタイア時に シュヴルーズに引っ込んだ。 

パリ時代の二人は美女・美男の親子と言えるでしょう。

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10.      シュヴルーズ時代のドニは  私のような家は ’ メゾン・ド・デュー 

神の家 ’ と言うのよ と語りつつ、 バカンスの度 年に何十日も孫たちを預かり、

一方 教会での様々な奉仕活動や    スキー板ではなく かんじきを履いての

雪山の踏破に意欲を燃やした。


パリ時代の黒髪 白髪となったシュヴルーズ、 ドニのビフォー ・ アフターも感慨深い。

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11.    一方フィリップの中年姿も なかなかイケている。 今や立派な建築家だ。

妻ドミニクは パリで歴史資料図書館で働いていたが 仕事の関係で資料を探しに来た

フィリップと知り合い結婚した。    フィリップにとっては再婚となるが ・・



ドミニクに聞いてみた。   フィリップと結婚した理由は?

フィリップの顎を撫でつつ 即答した。     ” ハンサムな顔 ! ”


あの栗色の髪の少年が ロマンスグレーとなった ビフォー・アフターの姿も 

ある種の感動だ。

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12.       さてこちらは 日本での話。   サンドラ一家とフィリップ一家は

シュヴルーズで 家族ぐるみの仲良しだ。     サンドラは今日本で働いている。


サンドラの日本びいきの度合いは図抜けている。  日本語を聞いて話せるばかりか

読み書きも出来る。   夏目漱石やよしもとばなな等も愛読書だ。

スーパーインテリと言って差し支えないだろう。




サンドラは一家で南アフリカで暮らした後 シュヴルーズにやって来た。  

事業に成功した彼女の親は金持ちだ。  

しかし、 
彼女が日本に来るにあたって 親の援助は一切ない。



彼女は東京でちゃんと働き 自立している。  

如何にもフランス的な親子関係に ただ感嘆するばかりだ。

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13.      ところで、 サンドラに ’ フィリップってハンサムよね~ ’ と呟いたら

大笑いされた !          ’ ああいうのハンサムって言わない。 ’

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今どきの若い子の好み ロックバンドの誰それなどと 名前を聞いても

分からないだろが、

取りあえず ” 男性のハンサム顔のビフォー ・ アフター ” っていうのがある、

と言う事だけは 思い知ったのでした ~~ 







シュヴルーズも今は水が引き なんとか平穏な日常が戻ったようだ。


来年の イヴェット川沿いの花のコンテストが楽しみだ !
 



                

2012年7月26日 (木)

ボーザールで「裸婦デッサン」 : 女はこうでなくっちゃ!

 

                                             

 

 

今回の ルーブルやオルセー美術館、セーヌ河畔、 モンマルトルなどの 

パリ見物で、 ふと昔のことを 思い出した・・・

 

 

 




私にとって モンマルトルと言えば、
生まれて初めて ” 油絵具 ” 

なるものを買った町。 昔 ’ ドガ ’ なんかがやって来た 

老舗の画材屋でした



素人だったが パリの魅力にそそのかされて、 

絵を描いてみる気になったのです!

 

                  

 





01.  あの頃は 基礎がないことにも気付かずに

かえって素直に絵が描けたものでした ~~ 
  

ひとたび 自意識が目覚めた後は つまずいてばかりですが 、、

 

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                              ( ボーヌ、夕景  )



 

02.  やがて こともあろうに パリの 国立高等美術学校

アカデミー ・ デ ・ ボーザ-ルの

「 裸婦デッサン講座 」 に 行ってみようと思い立った・・

                                   




 

03.  ボーザールの公開講座だから、一応誰だって参加できる。

とは言え 今なら 二の足を踏んでいたはずだが、素人の強み、 

怖いもの知らずでした ・・・

 


絵が好きな人たちに混じって デッサンに挑戦、 
 

あまり身に付かなかった
が、 よい経験にはなった !

 

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( セーヌ川 ポンデザール橋付近のボーザール 丁度 卒業制作展が 行われていた )






04. 因みに 現在は、 己の勉強不足を 悔い改めて

日本で地元の 裸婦デッサンサークルで 再修行中の身 、、、 

 

年間 のべ二十数人のモデルさんに出会うのだが

これだ! という好みのモデルには なかなか出会えない。 

 

 

                               






05.  日本のモデルは礼儀を心得ていて!? ポーズがおしとやか ・・

芸術が要求する!? 大胆なポーズは滅多に取らない。

 

一方、パリのモデルは ポージングに 結構なイマジネーションを

持ち合わせていた。

男性モデルも 黒人モデルもやって来て、 やはり 本格的だった。

 

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                            ( デッサン 10分  )







06.  ところで、 モデルと言えば 美人でプロポーションがよくて、と

想像するかもしれないが、 決して そんなことはない。

 

痩せギスの人も 三段腹の女性も たまにはやって来る。

 

ルノワールのように、 芸術とは美を写し取るもの 

という考え方もあるが、

一方、 美・醜にかかわらず ものの本質を写し取るのが 

芸術だという考え方もある。 

 

モデルが美しかろうが そうでなかろうが、描く側は黙々と

ただ本質を探り当てる作業を 行わねばならない。

 

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                                  ( 白百合   )



 

07. さらに、モデルは若いもの、という空想も見事に打ち砕かれる !

 

’ 写真のモデル ’ と ’ 絵のモデル ’ は そもそも 概念が違う。 

 

 

 

                        

 




話は 突然 脱線するが、 
マドリッドで長く修行し、 

結局は 「 スペインの写実絵画の旗手 」となった

「 礒江 毅 (ギュスターヴォ・イソエ) 」  という 

写実絵画の天才がいる。

 

彼の 人体デッサンには 興味深い逸話がある ・・

 

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                           ( ボーザール付近の アーケード )

 






08.  彼が学んだマドリッドの大学には デッサン教室が3つあり

1つは 若いモデルが 長時間 固定ポーズを取る部屋、 

 

2つめは 若いモデルが  20分ごとにポーズを変える 

クロッキー専門の部屋、

両方とも いつも 学生でいっぱいになる。

 




3つめの部屋は 年取った やや醜いとすら言える 

ベテランモデルが来る部屋、

やはり 学生は さほど集まらなかったという。

 


しかし、その老モデルは 微動だにせず 所定のポーズを 

終了まで死守、 本当に生きているのだろうかと 

思うほどだったという。

 

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  ( 昔のボーザールでのデッサン風景  礒江の教室も同じ様子だったと思う )

 







09.  人生の哀愁を醸し出す プロ根性丸出しのその老モデルは 

普通の学生には 不人気であったにせよ

礒江にとっては この上ないインスピレーションの源だったようだ 。

 

彼女のシワもたるんだ肉も余す所なく捉え、 それを昇華させた 

奥深いデッサンを たくさん仕上げている。



                        

 



内面を表現するための絵のモデルが 必ずしも 若くて、美人で、

八頭身である必要がない理由が 少しは語られたでしょうか ・・・

 

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( 礒江の 老モデルのデッサンと、ぶどうをテーマとした写実絵画 )







10.  再び 日本での話、、、 デッサングループで 

モデルが来ない時も たまにはある。

 

モデルが 寝坊をしたとか 電車に 間違えて乗ったとか、

モデル事務所が 手配ミスをした、 といった理由からだ

 



ある日 パリの ボーザールでも 同じようなことが起きた。

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                                    ( 女  )





結局 モデルが来ないことがわかると、 
ざわつく室内で 

リーダーとおぼしき人物が言った。   

 

「 仕方がない、 誰か脱いでくれる人はいませんか~? 」

 

 

 


                         


 

11. あたりを見回して、 いかがですか~? っと 

彼が 聞いて回るうち とうとう 私と目が合った 

 ” ヤバイ! ”

 

「 モデルになりませんか~  東洋人はあなただけです。

僕たちにとって なにかしら 特別なイメージなんです ・・・ 」

 




勿論 トンデモアリマセ~ン! と断ったが、 心で叫んだ。

「 脱げるぐらいなら苦労はないの、 痩せっぽちなんだから ・・」

 

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( ロアン小路、 ボーザール裏には 15世紀来の 趣のある3つの小路がある )






12.  っで どうなったかというと  

颯爽と、本当に サッソウと パリのマダムが脱いだ !!  

 

30歳代の カトリーヌ・ドヌーヴみたいな 日焼けしたマダムだった。

                    


上流マダム風の彼女、 もしかして ニースあたりで 

トップレスには慣れていたかもしれないが、  

モデルは 多分初めての体験だったろう 。




が、 実に堂々と、 
しかも 動かないという苦役に耐え、

 

立派に みんなの窮地を救った。

 

 

                    

 


やっぱり 女は こうでなくちゃ !!

 

そして、  これこそ  ” フランスの女  ” !?

 

 

 

 

2012年7月19日 (木)

ユトリロの傑作は アルコールの賜物

 

                                                   

「 モンマルトル 」と言えば 「 ユトリロ 」ですね

日本人は 「 フェルメール 」が大好きですが、

フェルメールブームが起きる ずっと前から 

ユトリロは ” 元祖 ・ 日本人好み ”の 画家だったかもしれません 



                                                     

01. モーリス・ユトリロ Maurice Utrilloは 始めから 画家だった訳ではなく

人生に頓挫した ただの アルコール中毒患者でした

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02. 入退院を繰り返す モーリスに手を焼いた 母親のシュザンヌ・ヴァラドンが

アルコールから気を逸らせてくれればと ただそれだけで 絵筆を与えてみたのです・・・

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03. 水彩で ’ ジャガイモ ’を 描くところから始めた モーリス、 


下手に 専門教育を受けていない 飄々とした彼の作品に 徐々に買い手が付き始めました

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( ’雪のサンピエール教会 ’  この作品は 後半の円熟期のものです、、

 夏は、 緑に生い茂る 教会前の樹木 )








04. 母親は 息子を画家にする気は毛頭なかったので、 絵の描き方を手ほどきすることもなく、 

結果的に 息子モーリスと 母親シュザンヌの画風は 似通うことなく、

それぞれ 全く 個性の違う傑作を 後世に残すこととなりました

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( ユトリロが 絵を描いた サン・リュスティック通りと リュー・デ・ソール通りの 交わるところ )







05.  因みに 母親シュザンヌ・ヴァラドンの 

” 線の強い 個性的な絵 ”と ” 美しくも逞しい 彼女の面構え ” は

私の「 サティの失恋 オンフルール 」編 (2011年9月28日)に出ていますので

ここでは 重複を避けますね・・ 

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( サン・リュスティック通り )







06. 不思議なことに、 道行く人々が ユトリロの絵の登場人物に見えて来ます~!

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ところで ユトリロには ”白の時代”という呼び名があるほど、白い絵が多い・・

これは 世間に白い絵の受けがよく、つまり ” よく売れたので ”、 

プロデューサーとして シュザンヌが そうした方向性を 指示したのが始まりらしい

(数百点に及ぶ 白の時代の作品には、 当然

ユトリロ自身が 切磋琢磨して勝ち得た画風の変遷が みられますが・・)

                      




07. 当時 シュザンヌは 13年来、資産家のポール・ムジスと結婚していたので、 

金銭的には 既に 安定した生活を手に入れていました  が、その後、 息子の友人で、

しかも息子より3歳若い、アンドレ・ユッテルと 恋に落ち、 ムジスとは離婚する ・・

結局 この恋人ユッテルが 今や人気作家となった ユトリロの作品や 

お金の出入りを管理する マネージャーとなったのです 
  


3人で避暑旅行をするなど まあ、普通では考えられない 飛んだ!?人間関係でした~

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( テルトル広場、 ユトリロの時代には こんなに閑散としていたのですね! 

右上に 屋根の形が同じ建物が 見られます )

                     




08. 1909年、44歳のシュザンヌが 21歳年下のユッテル、 そして

息子モーリスと生活を始めた場所

ユトリロは 相変わらず、 アル中で 精神病院に拘束されたり、 

酩酊状態で 車の前に飛び出して困らせるなど、警察沙汰も絶えなかったものの、 

母子共々 素晴らしい作品を生み出す 実り多い住まいとなりました


現在は 「 モンマルトル美術館 Musee de Montmartre 」になっています

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( 写真上 右側の建物が美術館   門を入ると 中庭があります )




09. プチトランで、 モンマルトルの丘を降りる

因みに この観光プチトラン、 特にフランス的、ということではありません

ヨーロッパ各国の観光地で ここ十数年 一斉に普及し出したので、 

EUのどこかの国が 一手に製造しているのではないかと 想像していますが・・・

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10. ユトリロ 「 モンスニ通り 」

「 白の時代 」から 黒い輪郭線で絵画空間を構成する「 色彩の時代 」へ 移る

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11. さて ここは 再び モンマルトルの丘  「 旧町役場前 」


現在は 「 A St Pierre de Montmartre 」という名のお土産屋さんですが 

この建物を パリの街角の作品で有名な「 荻須高徳 」が描いています

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12. ユトリロが もし 芸術の高等教育を受けて、 正確な遠近法で

カッチリした街角を描いたなら これほどの名声は残さなかったでしょう

同じく 高須さんの街角の絵も かなりバランスを崩している (この絵はまだいい方です)

文化勲章まで受けた 高須さんですから 恐らく 意識的に 

完璧なデッサンをはずしているのではないかと 想像しています ・・・

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何によらず、  人を感動させるものが 

いつも 美しく・完璧で・立派なものとは限らないのが 面白いところ ・・・

そして ’脱力系の ?!’雰囲気を醸し出す ユトリロの傑作が 

元をただせば アルコールの産物だったことも 興味深いところ ・・・

                         

ユトリロは 描きながら 絵筆を ぶどう酒のコップに 漬けたこともあったそうですから

もしかして 彼の絵から ワインの香りがするカモ ・・・ !

2012年7月12日 (木)

モンマルトルの丘 小銭が稼げます

                                               

パリ観光の目玉のひとつ モンマルトル

昔、この地は パリの街中に比べ 賃料や物価が安かったから

自然と 貧乏芸術家たちが 寄り集って来たわけ・・


やがて 類が類を呼び  活気に満ちた 自由奔放なボヘミアンの丘となった・・

”彼らが撒いた種”のお陰で 今日、 黙っていても 毎日 観光客が大勢やって来る

だから モンマルトルの丘では 小銭が稼げます!



                                          

 

01. サクレクール バシリカ聖堂 Basilique du Sacre-coeur

純白に輝く気高いシルエット パリにこの丘がなかったら その魅力は半減!?

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( イベント用足場が組まれていました~ )






02. パリという ” 白い海  ”

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03. モンマルトルの丘に登る方法は 5つ

フュニクレール(ケーブルカー)と、 プチトラン(観光トレイン)と、 テクシー?(徒歩)

そして 市バス(写真11)に タクシー

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04. 有名な テルトル広場 Place du Tertre

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05. ほぼ長方形の この広場  

カフェやレストラン 土産物屋が、 真ん中の 絵描きたちのテントをぐるりと取り囲んでいます

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06. 小銭を稼ぐには ” 街角ミュージシャン ”とか ” 物乞い ”という手もあるけれど

この稼ぎ口には 「 芸術性 」と「 忍耐力 」が 要求されますね・・・

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07. 画家には いわゆる「売り絵」を描く人と 「似顔絵」を描いて稼ぐ人と 二種類いる 

存在感たっぷりのおばさん お財布は首に掛け しっかり確保中!

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08. 似顔絵描きは 腕を磨くため 画学生が出ているという場合もあるけれど

大半はベテランの ” 商売似顔絵描き ”

値段は 30ユーロから80ユーロ、   結構な稼ぎです

勧誘されるまま 気軽に描いてもらったら 思わぬ高値ということもあるので

事前に交渉して ちゃんと値段を決めてからスタートしましょう・・・

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09. 画廊    ”  複製 ”と ” 手描き ”が ありますよ・・

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10. お飾り程度の打楽器と ” 回し蹴り ”のデモンストレーション

こんなことで 小銭を稼げるんですね~ ・・・

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11. 上の花嫁は ” 本物 ” で、 下の花嫁は ” お仕事中 ” ?!

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12. さて最後に ”謎”・・・  

ヤカンが たくさん掛かっています 

「 熱いので さわってくれるな!!」と 看板が出ています



コーヒーなら 店の中で入れるでしょうし、、、

熱いヤカンなら 危険この上ないですし、、、

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サン・ピエール教会 Eglise St-Pierre 前の 広場です
 


お出かけの方、 偵察して来て下さいませんか~~


                                        

2012年7月 5日 (木)

芸術家達の巣窟モンマルトル : シュザンヌとロートレック

                        




モンマルトルの丘への登り口 

ブランシュ広場 Place Blanche にやって来ました

                       





01. メトロ ブランシュ駅

アールヌーボーの代表的建築家 ギマール H.Guimard による 出口の装飾

ただし、これは 復元されたもの

こんな魅力的なしつらえも 時代遅れだからという理由で オリジナルは壊されてしまったとか・・

短命に終わった ” アールヌーボー様式 ” の運命を 如実に物語っていますね

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02. 19世紀末、ベルエポック時代に パリを熱狂させた ダンスホール

「 ムーランルージュ Moulin Rouge 」

一世を風靡した ”フレンチカンカン” 発祥の地 !



                        

現在、ここの踊り子は 実は ほとんどが出稼ぎ組、 ロシアや北欧の女性が多いらしい

身長・ルックス・バストの美しさ(大きければ良いという訳ではない!)など ハードルが高く、



何より ウイーン少年合唱団のように? 

ある年齢が来て 薹(とう)がたつと解雇という 厳しい世界です!

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03. この地区の大通りは  端から端まで

キャバレー、ナイトクラブ、劇場、Sexyショップ などで埋め尽くされている

「 Noctambule 」(右下)は 夜更かし好きのとか 夢遊病のという意味ですが

まさに この町全体が ” 夜更かし好きな 夢遊病!? ”   

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04. そんな地域にも ちゃんと 普通の生活があり、

ちゃんと 小学校だってありますよ ・・・   

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( お迎えの家族たち )








05. 子供の成長に合わせ ぴったりサイズの”革靴”を 神経質に選んできたフランス人ですが

最近は 子供たち、 スニーカーとリュック、 とても ラフなスタイル !


 

( 亜熱帯の蒸し暑い気候の中、革のランドセルに あれだけこだわる日本の文化は

ある意味 奇異であり、ある意味 高尚な文化である、と言えるかもしれません・・)

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( ブランシュ広場にて )







06. さて モンマルトルと言えば 周知のごとく 

有名無名 歴史に残る 多くの ” 芸術家たちの巣窟 ” でしたが、

”ムーランルージュ”を基点に 数々の名作を残した ロートレック H・T・Lautrecを 

一番に あげない訳にいかないでしょう

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07. 絵描きや画学生が寄り集まる地域では 当然ながら ” モデルの需要 ”も高い

当時、町の女たちは 洗濯や縫い物、家事の下働きをして 僅かな日銭を稼いでいましたから

” 画家のモデルという仕事 ”は ちょっと高尚な、 稼げる仕事だったのです 



好みのモデルを求めて 広場にやって来る 画家たちに 

はすっぱなお針子や洗濯女たちは 精一杯 自分の魅力をアピールしたものでした

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( 上 1900年頃のムーランル-ジュ  右下 ロートレック「 ムーランルージュにて 」 )




08. 貧しい洗濯女の 私生児という 境遇から、 自力で のし上がり、

自らも 絵を描くようになった シュザンヌ ・ ヴァラドン( Suzanne Valadon ) が、

貴族の出ながら 醜い小男の画家 ロートレックの モデルとなり、 やがて 

奇妙な恋人関係に発展して行ったのも この町




                          




気の強い 魅力的な顔立ちのシュザンヌは 既に多くの画家たちの 売れっ子モデルでした

彼女が子供の頃から 何かにつけ 出入りしていたのが 

ここ 「 ラパン・アジル Lapin Agile 」

シュザンヌが 息子モーリス( ユトリロ )を 出産した時も 

父親とされる男が 仲間に担がれて ここにやって来ると、 皆が 歓声を上げながら

勝利の祝杯を掲げたという!

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09. 「 ラパン・アジル ( すばしっこいウサギ という意味 )」 は、   

当時は ふところの寂しい 駆け出しの作家や画家たちが 酒を飲む溜り場でしたが

現在は ” シャンソニエ ”として 人気を集めています


 

                     




階段を下りた半地下の 薄暗い小部屋で 酒を飲みながら シャンソンを聞くのですが

” 歌詞が命の小難しい ” シャンソンを 心から楽しめる外国人は どれほどいるでしょうか・・


相変わらず ” 通の連中 ”が 好みの歌に 酔いしれる場であり続けているか 

チンプンカンプンの観光客に 少しは おもねる スタンダードナンバーを選曲をしているか

興味あるところです・・・

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「ラパン・アジル」の向かい側は 今でもブドウ畑になっていて

毎年、 盛大な収穫祭が行われます








10. ところで、シュザンヌは あのルノワールの ”恋人 兼 モデル ”でもありました

下段の 「 都会のダンス 」「 髪を編む娘 」など  ルノワーが、 どちらかと言えば

シュザンヌを 単にモデルとして ”自らの画題に沿うように” 描いているのに対し、

 
上段の ロートレックの 「 二日酔い 」「 洗濯女 」は まさに彼女の人生と人間性を
余すところなく捉え 

” シュザンヌを シュザンヌとして ” 描いていると 言えるでのではないでしょうか!

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11. いずれにせよ 二人の関係は 長くはつづきませんでした   

しかし、

シュザンヌの力強いデッサンに 画家としての才能を見出したのも ロートレック、

彼女に油彩と版画を指導し、彼女を庇護することになった ドガに引き合わせたのも ロートレック、

彼女に 多くの画集や書物を与え、画家としての基礎知識を与えたのも ロートレックでした

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(  ロートレックも出入りし 昔は酒場だった メゾン・ローズ La Maison Rose )









12. その後も シュザンヌは 数々の浮名を流し、 

かの 作曲家サティをも 失恋のどん底に 追いやることになるのですが、



 

一方、アル中に陥った 息子「 モーリス・ユトリロ (モンマルトルを描いたあの画家)」を 

アルコールから救い出すため 、 七転八倒の 不毛の闘いを続けるうち、

思いもかけず 息子に画才があることに気付くと、 

彼を一人前の画家に仕上げ、絵を売って儲ける という ”事業”にも 取り組んだのです




自らは ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールの 初の女性会員となり、 

作品も国に買い上げられるなど、画家としては 恵まれた終わり方をしたのではないでしょうか




                          







一方 己の醜さを 世界中の誰よりも 自分で軽蔑してみせたという 悲しきロートレック

酒池肉林の中に燃え尽きた ロートレックの 短い人生

胸打たれる ある種の感慨を 覚えずにいられません 



そんな彼の 心の支えとなったのが 、 フランスでも有数の 伯爵家出身の

” 本質的に高貴な貴族魂 ”と ” 母の愛 ”だったかもしれません

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南フランス 薔薇色の町 アルビ、 「 ロートレック美術館 」で 出会った 

「 母親の肖像 ( アデール・ド・ツールーズ ロートレック ) 」    (by Lautrec)

本日の 「私の一枚」です・・・






                             




つぎは   モンマルトルの山のてっぺん サクレクール寺院 界隈を ぶらぶらします

2012年6月28日 (木)

ブローニュの森 : ダイアナさんとシンプソン夫人 そして森の女



時は 1997年 夏のある日、 私は 不慮の事故で亡くなったダイアナさんの埋葬地

イギリスノーサンプトン州 オルソープ(Althorp)のスペンサー家の館の前におりました。




                                                





01.      屋敷のゲートには 花束が差し込まれて・・・

ダイアナさんが 亡くなったその夏、世界中が この悲劇に 興奮していたものです。

しかし、 パパラッチでもないのに!?

どうして 私がダイアナさんの埋葬地まで おしかけることになったかと言うと、、、

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02. ここは イギリス北部 ヨークシャーの田舎町 ハワース(Haworth)

シャーロット ブロンテ [ジェン・エア] と エミリー ブロンテ [嵐が丘] ら 三姉妹が暮らした町。



ヒースが生い茂る原野の真っただ中 こんな小さな村の建物をも

産業革命時の石炭灰が 真っ黒に染めた訳ですが、


 
この家は ブロンテ姉妹の主治医だった人のもの。 

今では B&B ( ベッドと朝食だけを提供する宿 ) になっておりました。

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たまたま同宿した このご夫婦が 「 ダイアナさんの故郷の町に行くとしたら


高速道路の降り口の看板に シートが掛けられている所が ” オルソープ ” よ、

余りに多くの人々が押しかけるので 困り果て 隠してしまったの・・

むしろ、 それこそが目印よ! 」 と教えてくれた。


そんな情報が得られた以上 素通りする訳にいきません ~~

                                                  







03.   目印の場所で高速を降り、一般道に出ると ありました ”Althorp”の 標識


スペンサー家の広大なお屋敷は 長~い塀で ぐるっと囲まれていましたが 

農牧地に 白馬なんかが遊んでいて 領地全体が いかにも伯爵家らしいムード・・




しかし、 せっかくの緑の大地の一部が 茶褐色の臨時駐車場と化し

私を含む! 沢山の野次馬を受け入れざるを得なかった 

当時の 混乱した状況を物語っていました。

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04.   さて こちらは翌1998年夏、パリ8区 ダイアナさんが亡くなった トンネルの出口、

アルマ橋 Pont d’Alma 付近      
 



そこに たまたま 以前からあった モニュメント 「 自由の火 」 が

これ幸いと すぐさま ダイアナさんの ” 慰霊塔 兼 祭壇 ” に早変わり、

ダイアナさんへ メッセージや花束を供えるため、 そして 

それを見物しようとする 多くの人々が 入れ代わり立ち代わり やって来ていました。

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                                      ( トンネルの出口 )








05.  そのダイアナさん、死の当日(8月31日)立ち寄ったのが ここブローニュの森、

エジプト系イギリス人 ドディ・アルファイド氏との結婚後の新居を下見するためでした。



その大邸宅、それこそ ” 王位を捨てた世紀の恋 ” で有名な 英国王エドワード8世と

そのお相手 ウォリス・シンプソン (Wallis Simpson) が 住んでいたお屋敷 !

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06.   2度の離婚歴があるアメリカ人女性を 英王室が受け入れるはずもありません。


結局エドワード8世は ” 恋を取り ”、 ” 王位を捨てた ” ( 1936年 ) 

そして病弱で吃音の次男、ジョージが王位に就いた ( 現在のエリザベス女王の父 )。





ウォリスは ものすごく美人だったわけではありませんが 

男性を虜にする魅力は 有り余るほど持ち合わせていたに違いありません。
 



チャールズ皇太子も 結局は 風采の上がらないカミラと よりを戻しましたし

ダイアナさんも イギリス紳士とはかけ離れた アラブ系の男性を選びかけた!?

人の恋路を邪魔する奴は 馬に蹴られて ナントヤラ・・・! なんですね。

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                                    ( ウォリス と エドワード )






07.       パリ市に接した ヌイ ( Neuilly )地区は  西側にセーヌ、

東側と南側を ブローニュの森に囲まれた 高級住宅街。

パリ16区同様、外国人のお手伝いさんなんかを雇う お金持ちの暮らしぶりが垣間見られる。



画面中央の D型で囲んだ白枠あたりが マダムシンプソンの広大なお屋敷で

その南側が バガテル薔薇園と なっている。

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08.      現在は Google Earthで こんな風にお屋敷を俯瞰できるが

実際お屋敷の前に立つと うっそうとした木々に囲まれ、中をうかがい知ることは出来ない。

私達も 長くこのお屋敷そばに住んでいたが 出入りする車を数回見かけただけだった。





さて、 1972年にエドワードが死去、 1986年には ウォリス・シンプソンが死去

その後、  この館は 


ダイアナのお相手の父親 モハメド・アルファイド氏の 手に落ちていたそうだから

ダイアナが この地を訪ねたのも 当然の成り行きだったのでしょう。

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                     (  森に接した 一般の高級アパルトマン )








09.   さて、ブローニュの森 (Bois de Boulogne) 大昔は本当に奥深い森で、

兵隊が野営したり、盗賊の隠れ家になったり、貧民屈になったり 様々な歴史がありましたが、



19世紀に入ってから 市民の公園として 開発が進むと 様子が一変、

明るく 清潔な 美しい憩いの場として パリ市民に親しまれるようになりました。

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10.        ’ 森 ’ と言っても 要するに 広大な公園ですね

いくつかの人工池が備えられ 釣りも出来る。

ドガの絵で有名な 「 ロンシャン競馬場 」、 子供たちの遊園地と 動・植物園を兼ねた

「 アクリマタシオン 」、 
モネの ” 印象日の出 ” で有名な 「 マルモッタン美術館 」、

 
世界のバラ園のお手本となった 「 バガテル公園 」 など 羨ましい施設が満載、

週末になると パリっ子たちは 必ず 犬か、子供か、恋人を連れて 森に出かけ

思い思いに 優雅なひと時を楽しみます。

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                                         ( Bagatelle )






11.         っと ここで終わりたいところですが、、、

ブローニュの森で忘れてならない存在が いわゆる ’ 森の女 Femmes du Bois ’



夜な夜な 奇抜な、というより露出的なファッションで 時には 奇声を上げながら

数人のグループで 陽気に お客を誘う女たち。

( 厳寒の冬季には 彼女たちにとっても 街頭立ちは 苦行となる訳ですが・・ ) 




売春婦(Prostitute)に 直接かかわりのない 平凡な市民も

” 映画の一シーンを垣間見るような 純粋な好奇心と 怖いもの見たさから!? ”

車を 何度かUターンさせて 彼女らを見物することもある。


フランスの売春婦の約半数が パリで稼いでいるそうだが、

その多くが 外国人であったり、ゲイであったり、貧困学生であったりと

時代や世相を反映して その中身も 徐々に変化しているらしい。






12. それに 売春婦は若い、とは限らないし、 夜、とも限らない。

真昼間から ブローニュに佇む 中年のおばさんと、そうとは知らず会話したこともある ・・・


怪しげだが 知的な人も 偶にはいる  

フランスでは ” 人生の達人のスタンダード ” は 様々だ !

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子供から大人まで、王族から売春婦まで、  清濁併せ飲む 懐深いブローニュの森は


そのまま パリの、そしてフランスの、奥深い社会の姿を 代弁しているかも知れない。




                          


パリ散策 つづきます

2012年6月21日 (木)

太っ腹の「ルーブル美術館」 実は ”難解の館”

                                                   

01. なんだか すごい人出 !  ここはどこ ?   

ツアーコンダクターの旗も 見えます~

そう、 ここが かの有名な 「 モナリザ La Joconde 」 の展示コーナー

とても ”絵画鑑賞”っていう雰囲気ではありません

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02. そのたった1枚でも もし日本にやって来たら 行列ができる絵が

あたかも平凡な絵であるかのように 次から次へ現れる ・・・


そう これが かの 「 ルーブル美術館 Musee du Louvre 」

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03. お気付きのように ルーブルでは 太っ腹にも 「 カメラOK 」


   
もともと 
作品は 全てデジタルファイル化されているし 古い作品は著作権も切れている

撮られても減るもんではないし、最近のルーブルは鷹揚だ

しかし 本当のところは、 ルーブルの展示スペースが あまりに広大で

デジカメで 勝手にパチパチ撮りまくる観光客の全てを 見張りきれないから、

というのも 理由の一つではないかと想像しますが ~~




                   




もう一つの 太っ腹ルーブルの証は 「 模写OK 」

絵を愛する全ての人に 勉強する機会を与えようという大らかさは さすが芸術大国

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04. しかるべき所からの推薦状や、 犯罪歴がない旨の証明書などを添えての
 

やや煩雑な申請手続きがあるものの、
 


一旦 許可が下りれば

3か月間 土日を除く毎日 無料でルーブルに通え、イーゼルや椅子の貸し出しも受けられる

名画のそばで 絵筆を振るうのだから おのずと 様々なマナーが要求されるが

要するに
” 人を大人扱いするフランス ”に対し 描く方にも ” 大人の自己責任が生ずる ”という訳



                   




ところで、写真をよく見ると、「本物」と「模写」は 作品の大きさが違いますね

「模写」は 20%ほど大きくするか 小さくしなければならない

人前で描こうというくらいですから やはり どの模写もかなりの出来栄えです

後に 本物として 世に出回らせないためでしょう

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05. フランスでよく見かける 「 校外グループ学習 」

ジェリコの「 メディウス号の筏 」も  ドラクロアの「 アルジェの女たち 」も

実は 学生たちが邪魔で 非常に見づらかった~ 



しかし、日本でも 子供が邪魔で仕方なかった、と言えるくらい

美術館での学習が 普通になってもらいたいもの!

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06. さてこれが ルーブルの「 ピラミッド 」

現代アメリカを代表する 中国系アメリカ人建築家 イオ・ミン・ペイの作品

古い建物に 新たな息吹を与える 素晴らしい造形美です!

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07. ミッテラン大統領時代の 「 大ルーブル計画 Le Grand Projet 」で、
1989年に完成

ピラミッドの真下は 押し寄せる観光客の動線の中心、中央ロビーとなっている



ルーブル改造に 中国人に 白羽の矢を立てたのも すごいことだが、 

近くオープンする 北仏の「 ルーヴル・ランス別館 (Le Louvre Lens) 」の設計も

日本人建築家 妹島 和世さんと 西沢立衛さんが 手掛けている  

” 良いもの ”であれば 国籍を問わない 「 ルーブルの太っ腹 」も 見事です!

( 因みに、 近く アラブ首長国連邦にオープンする 

ルーブル ・ ダブ ・ ダビ ( Louvre d’Abu Dhabi )には さすがに

フランスの魂を外国に売り渡すな!と 抗議の声が上がっているらしい )

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                                        ( 逆さピラミッドもある )




08. 一見 保守的で 閉鎖的に 感じるフランスですが 実は 常に 新しもの好き? 

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( 手前は カルーゼル凱旋門 )






09. ふと 思ったのですが


 
モンマルトルにやって来た ゴッホやピカソ、フジタを 見てごらん、
 

今日の サッカー選手やスーパーモデル、シャンソン歌手を 見てごらん
 

ムーランルージュの踊り子たち、 現代アートの作家たち ・・・


元を辿れば フランス文化の担い手に いつも 多くの外国人がいるのです 

「 フランス文化は 実は 昔から太っ腹 」 

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( ルーブルから見える モンマルトル、サクレクール寺院 )







10. パリ市の西側に広がる 新都心 ” ラ・デファンス La Defence ”

「 ラ・デファンス 」の 新凱旋門(画面中央)と 凱旋門、 カルーゼル凱旋門(写真08)は

一直線上に配置されており、パリの中心軸を成している

旧市街と新都心をつなぐ 「 新凱旋門 」、心憎いばかりの演出では ありませんか~!

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11. せっかくですので、 何万点というルーブルの作品から 1点を選んでみました

「 横たわる死せるキリスト 」  シャンペーニュ F.de Champaigne

壮絶な死を遂げたイエスの 崇高な美しさが 満ち溢れています (上)


「 死せるキリスト 」  マンテーニャ Mantegna (下) は

イタリア、ミラノの ブレア美術館蔵ですが 

頭から足の先までを ”短縮法”という技法で描いた珍しいキリスト像


構図的に対照的な二つの絵、 フランスとイタリアで出会った 「 私の一枚 」です

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12. さて、 シャンペーニュのこの絵、 

絵の左側から見た場合と 右側から見た場合では これ程の違いがありますよ~

絵画の見方の 一つの参考例になるでしょうか・・

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ここからは 蛇足になりますが 

キリストの槍の刺し傷が右胸にありますね  心臓は左側にあるはずですが・・・

                          



当時  十字架での死は あらゆる死の中でも 最も みじめなものでした

生きたままの人間の手足を 釘で十字架に打ち付け 晒し者にして 

出来るだけ 長く苦しませるという 最も残酷な処刑の方法でしたから



手足には 体重がかかり ビリビリと肉が裂けていく ・・・ 

激痛と出血と 喉の渇きに 罪人は苛まされる ・・・

体力がある者ほど 絶命まで時間がかかるという



                                     





イエスは 木曜の夜 いわゆる「最後の晩餐」のあと 捉えられ、

徹夜の尋問の末、  翌朝 金曜には裁判にかけられ 

その日のうちに  あれよあれよと言う間に 処刑場へと送り出される




茨の冠をかぶせられたイエスは 自分が はりつけになる重い十字架を担がされ 

鞭打たれながら 何度となく倒れつつ ゴルゴダの丘に辿り着く 




既に 体力は相当失われていたであろうが
 

十字架上で イエスは さらに壮絶な死の苦しみを味わう

絶命まで半日かかったと言われる


                        





刑の執行人が さすがに憐れと思ったのか、イエスの右脇を槍で突いて出血を促し、

早く死ねるようにしてやった、という説と

「ヨハネによる福音書」にあるように、

イエスがちゃんと絶命したかどうか 槍で突いて確認した、という説がある




いずれにせよ 傷跡が 右脇にあるのは こうした理由からなのです

                         



印象派中心の 人気の 「 オルセー美術館 」の 絵が
 

ある程度「 感性 」で感じ取ることが出来るのに対し、



「 ルーブル美術館 」の 絵の大部分は 

西洋の 歴史や宗教・神話などの「 知識 」をもって 読み解かねばならない



いわば 「 教養 」がないと 真の感動に至れないという訳・・・


「太っ腹のルーブル」とは言え、

日本人にとっては 本当は ” 難解の館 ” だったのです!!



                        




パリ散策つづきます

2012年6月14日 (木)

「凱旋門」 危険は自己責任 : パリの「ソルド」は 真剣勝負

                     


パリは もともと 「世田谷区」と 同じくらいの面積、

その狭さに 世界中からの観光客が集中するので 

特に夏場は どこも混雑している 

 


                     




01. 「パリオペラ座 Palais Garnier」 シャガールが描いた天井画が有名

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02. 1889年の万博時に登場した「 エッフェル塔 Tour Effel」

奇抜な立ち姿に度肝を抜かれた 当時のパリっ子は もう喧々諤々、賛否両論


中でも 反対派の筆頭、 小説家 モーパッサンは

 
「 唯一、腹立たしいエッフェル塔を 見なくて済む場所だから 」 という理由で

毎日 塔の2階のレストランに通ったという

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(天空の気持ちよさに モーパッサンも 内心いつしか懐柔さたのではないかと想像しますが・・)

                       

03. エッフェル塔のエレベーター、 構造は120年間 変わっていない ・・

昔は エレベーターの箱の停止線あたりに 玉子を置いても 

それを壊すことなく ピタッと止められる、というのが ”運転手”の誇りでした

「水圧式動力」は 動きが遅いので そんな技が楽しめたのでしょうが、 近年は

押し寄せる観光客を捌くためにも 最新式のモーターが導入されている

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( 現在 )                                     ( 建設当時 )






04. リュクサンブール公園  Jardin du Luxembourg 

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05. 公園内の噴水池  ぐるりと一周 憩いの場

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06. リュクサンブール公園から 

「シャンゼリゼー通り」と「凱旋門」が 一本に連なって見える

 

「凱旋門 Arc de Triomphe」の屋上に 観光客がいますね  ↓

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昔は あの屋上に柵がありませんでした  ”落ちるも落ちないも自己責任”という訳

最近は さすがに 低い柵はあるらしい ・・・

 

エッフェル塔も せっかく 一人の事故死者も出さず建設出来たというのに

開業以来 毎年、自殺者が絶えないという

 

                      

日本のように、
駅のプラットホームで 「電車が入ります 白線までお下がりくださ~い」 とか
 

ベルと共に 「間もなく電車が発車しま~す」 などと 丁寧に注意してくれる
親切な国は 他にない

 

柵がなかったばかりに 訴えられたという話も 日本ではよくある話

 

取りあえず ”自己責任”の概念は 国によってまちまちですから

少なくとも 海外では しっかり自己防衛いたしましょう!

 

                   


 

07. ヴァンドーム広場 Place Vendome

スーパーモデルは さすが Super!!

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08. シミひとつない美しいお顔  細く たおやかな肢体、、、、、

コートの下はどうなってるんでショ !?         

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09. O la la~~! (オララ~~  おやまァ~~  細いこと!)
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                                     ( マイヨール作  Maillol )



                      





10. ギャラリー・ラファイエット Galeries Lafayette

ブランド店が連なる パリで 最もお洒落で高級な デパート

 

私が訪ねた6月のある日は 丁度 ”バーゲンセール”が始まる前日で

服の値札には ずらりと 40%引きのしるしが付けられて 準備万端の様子!


もう札が付いてるのだから 値引きしてよ、と粘ったけれど 

「明日からです」とピシャリと断られた

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11. 実は 年2回の パリのバーゲン「ソルド Soldes」の期日は

お役所が決めることになっていて  店が勝手にセールをしてはいけない

因みに、  パリジャンの財布は紐が固い! 絶対 余計な買い物はしない!

考えて考え抜き、堅実な日常品でも 「ソルド」を 待って買う

                   


パリ中に「ソルド」の看板が並ぶと、 国内は元より 近隣の国々、そして

日本やアジアからも ブランド目当てに 一斉に お客が詰めかける

 

開店時には 警備員や店員が 縄を張ってコントロール・・ 


 
そんな 国を挙げての真剣勝負の 一大イベント ・ 「 ソルド 」の前日に

フライングで 私だけ 値引きしてもらえるはずありませんでした~~!   

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さて、 余談ではありますが、 東京に フランスやイタリアのブランドの店が

続々オープンし、 日本でもブランド品が 手に入りやすくなりました

また 一時の  ”ブランド信仰”も やや下火になり、

TPOに応じた自分らしさを ちゃんと自覚できる 賢い日本人になって来たような気もします



                      





大昔、シャンゼリゼーの とある高級店に、日本人観光客が押し寄せた時
 

店員が 床にバッグをばら撒くと 日本人がそれにどっと群がった、という 

やや国辱的な話も聞きました

 

バブルもはじけ、日本もいろいろな苦労を経て、やっと大人になったかも知れません


 

フランス人に ” 良いものを長く使うというブランド思想 ”は あっても

” ブランドに目をギラつかせるフランス人 ” なんて 見たことがありません  

 

日本人が フランスブランドに儲けさせるのも もうほどほどにしませんか~~ !? 

もっとも 最近は 彼らも 中国の方に より熱を注いでいるようですが・・・

                        

 

パリ散策 つづく

2012年6月 7日 (木)

サンジェルマンデプレ 「カフェ文化」って 面倒くさい!


                                                    



今回は 
サンジェルマンデプレ St-Germain des Pres界隈を歩いてみます~





01. パリ14区 モンパルナスタワー Tour Montparnass

1973年に建てられた210mの 超高層ビル

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02. TGV開通の1990年に改装された ギャール(駅)モンパルナス 

パリ人は 保守的な反面、  ” やる時はやる ”


醜悪とののしられたエッフェルタワーを始め、 ルーヴルに ガラスのピラミッドを作り

エコールドパリ時代を謳歌した 古きモンパルナスにも こんなものを出現させた

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03. そのタワーを 真っ直ぐ北上した所が パリ6区サンジェルマンデプレ

そのシンボルが サンジェルマンデプレ教会 Eglise St.Germain-des-Pres

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( このオブジェ 決して ” 地震による液状化 ” ではありませ~ん・・・ )




04. さて、サンジェルマンデプレで 避けて通れないのが 「カフェ文化」

ピカソやヘミングウエイ、カミユ、ヴェルレーヌ、ランボーやマラヌメなどをはじめ

有名無名の文化人・芸術家・音楽家たちを育んできたストーリーが語り草となっていて


サンジェルマンデプレの カフェやホテルを題材とした小説や映画も数多い

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( アールヌーヴォー調の内装が豪華なレストラン Le Petit Zinc)






05. とりわけ 下の写真 手前の「カフェ ド フロール Cafe de Flore」と

向こう側の「レ ドゥー マゴ Les Deux Magots」は  

それぞれ 個性を磨きつつ 長年激しく競り合って来た 二軒の有名カフェ

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実存主義哲学のJ・Pサルトルと 「第二の性」を執筆中だった無名のS・d・ボーヴォワールが 

二つのカフェを用途に応じて使い分け 書斎兼事務所として 時を過ごしたことでも有名です



 

                      





06. しかし、有名な人たちの話はさて置き、 普通の人たちにとっても

パリのカフェは 昔も今も とても大切なものに違いありません

パリの「カフェ文化」は  言わば

日本の「自販機文化」と「ファミレス文化」の両方の機能を持っていると言えるかも知れない

ちょいとコーヒーを飲んで、口慣れた軽食を取って、気軽に仲間や知り合いと語らう・・

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( カフェ ドゥマゴの名前の由来の 2体のDeux ずんぐり陶製人形Magot )







コインを入れたり、 自動コーヒーメーカーで 手軽に飲めばいいものを

わざわざ ギャルソン(ボーイさん)を介して チップまで添えて
 

” 人間臭くて ” ” 不便で ” ” 面倒臭い ” 方法でコーヒーを飲む

でも  こんな 「カフェ文化」の仕組みこそが  

人生の大切なことや 政治や芸術の核心を語る雰囲気を生み出し、

結果的に 時代の知性・思想を育んで来たのかもしれない



                       





07. そういう訳で、 観光客として パリのカフェに入って雰囲気を味わうのも悪くはないけど

”真のカフェの客” になるためには 

カフェで仲間と語らい 自分の思想信条を育まねばならない・・・!?

どこの国でも ”カフェ”や ”パブ” ”バール”に 国民性の本質が隠れていそうですが

とりわけ フランス観光って 面倒臭くて 奥が深いのが 玉に傷かも ~!!   

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08. ところで サルトルとボーヴォワールの 「結婚しない両性のあり方」は有名でしたが、

今般 仏大統領になった オランド氏 F.Hollande、   最初のパートナーが 

前回 大統領選に出馬して サルコジに敗北したセゴレーヌ・ロワイヤル女史

現在のパートナーが ジャーナリストのヴァレリー・トリエルヴィレール


 

共に 事実婚だが ’結婚’はしていない    さすがフランスだァ・・・

もし、なんだかだ 物申したら 

それがどうした! エ アロー Et Alors!  って言われそう・・・ 

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( サルトルが座っていたテーブルには 刻印がある )







09. さて、当夜の夕食は クロケットとムール

本場ブルターニュのムールは 小さくて固めだったが レオンL’eonのムールは

大きくて柔らかい     聞いてみたら チュニジア産らしい

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10. ところで、レオンでは 日曜の夜に限って ムールの鍋 もう一杯お代わり自由 !

そんなこと知らないから ”いりません、結構です~”と 断ってしまった

ムッとしたボーイさんに とりなしてくれたのが 彼ら、、、

目出度く お代わりが タダで手に入った

彼らは ギリシャとスペインからの 出稼ぎ組み   
外見からはわからないが パリにはこうした人々が ワンサといる




因みに このお代わり自由の話、  後日 ホテルマンや タクシードライバーに

吹聴したのは 言うまでもありません!

みんな 知らなかった~~と、すっごく 喜んでいました・・

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11. ところで サンジェルマンデプレには アートギャラリーが軒を連ねる

パリの現代アート、 ウインドウを眺めるだけでも 相当楽しめます~

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しゃれこうべは 全て 鳥の羽で出来ています  う~ん、お洒落こうべ!

                     


パリ探訪 つづきます

2012年6月 1日 (金)

パリ 「カルチエラタン」 雑踏は多国籍の臭い

                                              

 

 

パリ5区 「 カルチエラタン Quartier Latin 」

              ここには昔から 教会、大修道院、病院、大学などがあり、

              パリの文教地区、パリの知性と称される地域

 

宗教関係者や 学者・学生たちが ラテン語を使って来た地区だから 

カルチエ( 地区 ) ラタン( ラテン語の ) なのです。

 

                                             





01.          ノートルダム大聖堂 Cathe.Notre-Dame

入場を待つ大行列、 、、、、

 


その雑踏を横目に  
セーヌを渡って 左岸地区の 「 カルチエラタン 」 に 向かいます

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02.     カルチエラタンには ソルボンヌ大学などがあり 知的な学生街である一方  


世界中からの観光客も入り混じり 多種多様の人間の顔が 交差する !

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03.     カルチエラタンは 本当に いつも 人でいっぱいです~

 

本屋さん前    何かイベントがありそうですが、近づけませ~ん。

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04.     雑踏の片隅に 小さな教会、、、  絵のような佇まいに フ~っと息をつく 

これもまた 独特なパリの魅力

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                          ( Eglise St-Julien-le-Pauvre )

                    






05.             靴のデザインに ハッとしましたよ ~

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06.       この日は ” 音楽フェスティバルの日  Fete de la Musique  ”

毎年6月21日、フランスの国中の街角で、音楽が奏でられます。

 

普段 音のない ごく普通の街角で 突然 生演奏が始まったりすると 

とりわけサプライズ感があって ウキウキするものです~  

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07.      さて、 今宵の夕食は 何をいただきましょう・・・

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08.        イタリアン、スパニッシュ、ギリシャ、フレンチ、、 肉、魚、お菓子・・・

多国籍のB級グルメが 軒を並べていて目移り、、  とても即決できません!

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09.    ” 〇X酒家 ” という看板に釣られて 中華に決めたつもりでしたが~

純粋な中華ではなく  多分  カンボジアでした。 


  
 
国境を接する中国とカンボジア、 そして 多くがフランスへ移住した国、カンボジア。

複雑なファクターがからむ カルチエラタンならではの お味でした

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10.       カルチエラタンに シェクスピア!  英語の書籍を扱う 古本屋

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11.  「 学士院 Institute de France 」 前で ミュージック フェスティヴァル

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夜も9時を回ろうとしていますが まだまだ 明るいです ~ 

 

                   



演奏する人も 聞く人も、 黄昏のパリ色に染まって 
 

いつまでも いつまでも 浮かれておりました~~  





                              

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