南仏・ナポレオン街道 サンヴァリエ ラバに乗ったナポレオン
南仏の旅、 コートダジュール沿いのカンヌから
「ナポレオン街道」 を辿り内陸へ入った。 最初に
グラースを訪ね、 その夜はサンヴァリエ泊となった。
01. 香水の街・グラースの北方 12kmにある
「 サン・ヴァリエ・ド・ティエ 」 で良い宿を見つけた。
ホテルは 2つ星くらいが丁度いい。
02. 街は 緑なす谷間のリゾート地で、 レストランが
たくさんあった。 ガーデンテラスでの夕食は気分がいい。
料理と 樹齢400歳のプラタナスが ここの自慢で、
2年に1回剪定することが 街から義務付けられて
いると、マダムが言っていた。
03. 700mと程よい標高にあるこの街は 自然リゾート
ばかりでなく 昔から 肺の病気の療養でも有名だった。
空気が澄んでいて 夜 テラスから
無数の星々が 瞬くのが見えた。
04. サン・ヴァリエは 「ナポレオン街道」 上の街で
ナポレオンが 1815年3月2日に 通過している。
エルバ島を脱出したナポレオンは、 3月1日にカンヌ
を出発、 グルノーブルまでの324kmを6日間で踏破、
最終的にはパリ入城を果したのだが
特に カンヌ~グルノーブル間を
「La Route Napoleon」 と呼んでいる。
05. さて翌朝、 ホテルでの朝食後
散歩に出た私は 2人のおじさんに遭遇した。
まずは ヨーキーを抱くおじさん。 彼の犬は
なんと 半年前亡くした私の愛犬にうり二つだった!
蓋をしていた心に 懐かしい思い出が蘇り、
私の目から どっと涙があふれた。
女性を泣かせた!? おじさん 、、
バツが悪そうに そそくさと逃げて行った。
06. さてこちらのおじさんは 世界旅行が趣味。
彼の方から 嬉しそうに声をかけて来た。
日本も 広島長崎 奈良京都 日光 富士山など
3週間ガイドを雇って巡ったと言う。
清潔な乗り物が 印象的だったとか ・・
パーソナル通訳・ガイドを付けるなんて お金持ち!
後で思えば、 世界の香水産業グラースの保養地、
こんなムッシュがいても不思議ではなかった。
07. 直感で選んだ街だったが 美しく穏やかで
’ 当たり! ’ だった。
08. 街を出ると直ぐに 山道に差しかかるが、
ナポレオンも こんな景色を見たのだろうか ・・
09. さて ナポレオンの話に戻るが、
復権を目指し パリに戻ろうとしたナポレオンが
始めから人々に歓待され 支援された訳ではない。
1815年2月26日 エルバ島を脱出したナポレオンは
カンヌで 役場を通じ何とか食料を調達 装備を整えた
のだが、 人々からは冷やかな眼差しを向けられた。
10. また 彼を阻止しようとする王軍部隊の
警備が厳しいのではないか と恐れたナポレオンは
主要ルートを避け 山越えルートを採用、
偵察先遣隊として 一人の将軍に100人の歩兵、
4人のポーランド人槍騎兵を付けて 送り出す。
11. グラースでも 敵意ある民衆から襲われかねない
と危惧したナポレオンは、 グラースの中心部を迂回して
郊外で一休み。 部下のリュックに腰かけ ローストチキン
を頬張ると 小一時間もしないうちにそそくさと出発した。
今やナポレオンが通ったストリートと 糸杉が植樹された
休憩所(赤い印し) は グラースでの名所となっている。
12. さて送り出した先遣隊から サン・ヴァリエの
山道は 到底馬車では通れないと 報告を受けた
ナポレオンは やむなくコーチ2台と大砲2基を放棄、
岩山歩行に適したミュールを調達 ようよう出発した。
ミュールとはラバ、 つまり
雌馬と雄ロバを 掛け合わせた動物だ。
13. 11.の ”アルプス越えの絵画” で、 理想化
された 白馬にまたがるナポレオンは カッコよく美しい。
しかし実際のところ 白馬でアルプスは越えられない。
ミュールにまたがる皇帝は とぼとぼとみすぼらしいが
これが現実的な姿に近かったのかも知れない ・ ・
さて 初めは苦労したナポレオンだったが、 周知の如く
グルノーブルに近づくにつれ 信望者や援軍が徐々に増え
ナポレオンの軍団は 勢いを増して、 グルノーブルから
リヨン パリへと向かって行った。
ナポレオンの言葉によれば
” 余は グルノーブル前は 山賊の様であったが
グルノーブル後は 君主の様であった ! ”
私自身は このセラノンという街を過ぎたあたりで
ナポレオン街道に別れを告げ、
フランスのグランドキャニオンと称される
「ヴェルドン渓谷」 方面に向かった。
最後に 面白回文を!
「 Able was I ere I saw Elba 」
( ere は接続詞 ~する前に )
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