01. カレル橋の塔をくぐって 旧市街側に来た。
振り返ると 搭には聖人像が飾られ
橋側と表情が異なっている。
右手がカレル4世像。 遠景がプラハ城。

02. 引き続き、 歴代の王がプラハ城へ向けて
華やかな戴冠パレードを行った ’王の道’ を辿る。

03. 狭いカレル通り、古い建物が建ち並ぶ。

04. いよいよ 「 旧市街広場 」 に着いた。
左手が旧市庁舎、 奥に 尖った2本の塔が際立つ
ディーン教会 (1135年創建)。
美しく華やかな広場に 世界中の観光客が集まり
互いにぶつかりかねないほどの賑わいだった!

05. 市庁舎には 15世紀から今日まで動いている
「天文時計」 がある。 上は 地球を中心に太陽と月
星々が回る形で 1周で 1年の月日時を示し、
下は カレンダリウムと呼ばれる黄道12宮と
農村での四季の作業を示す暦を示している。
時計の左側、レンガ色の建物には 旧市街の紋章と
”プラハ 王国の首都” という文字がある。

06. 市庁舎は 何世紀にもわたる改修、
第2次大戦後の修復などを経て、 様式や装飾が
それぞれ異なる建築物の集合体となっている。
奥の白黒のスグラフィット装飾 (だまし絵)の
棟も 市庁舎の一部だ。

07. ’大道芸’ 台に立つ前に打ち合わせ ・・

08. 15世紀 チェコに於ける宗教改革の先駆者
「ヤン・フス像」。 敬虔なキリスト教徒だったフスは
ローマ教会の堕落を激しく批判し 信念を貫いたため、
異端として1415年、ここで火あぶりの刑に処された。
フス像は 没後500年を記念して、
1915年に造られた。

09. こちらは 旧市庁舎の少し南方、
ヴァーツラフ広場。 現在 プラハ随一の繁華街だ。
何とも平和な風景だが、 実は この広場 1968年
チェコの民主化を弾圧するため ソ連を中心とした
ワルシャワ条約機構軍の戦車が大挙して侵攻した場所。
結局 ”プラハの春” は挫折の憂き目を見た。

10. ここに押し寄せた鉄の塊 戦車の轟きは
威圧的で 如何にも恐ろしいものだっただろう。
しかし、 20年後の1989年 100万余の
プラハ市民がこの広場に集まり、 いわゆる
”ビロード革命” 無血の民主化が 果された。
正面の国立博物館まで750m 幅60mの
ヴァーツラフ広場は、 チェコの歴史の変遷を
物語る大きな舞台、 生き証人なのだ。

11. 広場の近くに こんな場所もあった。
1787年10月にモーツアルト自身の指揮で
オペラ・ブッファ 「ドン・ジョヴァンニ」 が
初演されたエステート劇場と、 主人公・夜這いの像。
プラハで 翌年発表したフィガロの結婚も好評で
モーツアルトはご満悦だったらしい。
1910~11年 プラハに滞在したアインシュタイン
大学で講義したり 相対性理論の構想を練ったり、
このカフェで友人達と会い ヴァイオリンを弾き、
有意義な日々を過ごしたという。

12. かつて王宮があった場所に 市民の為の
催し物を行う目的で 1911年に建てられた
「 市民会館 」。
内部には スメタナ・ホールという音楽会場が
あるが、 何と言っても 内装・外観共に、
アルフォンス・ミュシャなど チェコの芸術家が
施した 華麗なアール・ヌーボー装飾が素晴らしい !

13. この市民会館に隣接してあるのが 「火薬搭」。
1475年建造の城壁の一部だが、 17世紀に
火薬倉庫として用いられたことで この名が付いた。
実はこの火薬搭こそ 歴代の王がプラハ城へ向けて
華やかな戴冠パレードを行った ’王の道’ の
出発地点だった。
( 私が辿った行程とは逆になるが 、、 )

私には、
モーツアルトが 実際この街を歩いたことも
感動だったし、 パリやアメリカで成功を納めた
画家A・ミュシャが 結局 晩年はチェコに戻り、
スメタナの我が祖国を聞いて触発され
20年がかりで描いたという連作 「スラブ抒情詩」
を描いた街に 来られたことも感動だった。
音楽でも絵画でも スラブ魂って どこか違うんです!
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