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2019年8月 9日 (金)

ベルリンの壁、ブランデンブルク門、そして冷戦時代の陰鬱なベルリン


第二次世界大戦後、 戦勝連合軍 (米 ソ 仏 英) は

敗戦国ドイツを4分割して それぞれを管理下に入れることにした。 



ソ連の占領地区内に入ったベルリンだが 首都だったため

特別に4か国の共同管理下に置かれた。    奇しくも

東ドイツ国内の小さな飛び地となったベルリンの中で やがて 

資本主義国家・西ドイツと 社会主義国家・東ドイツという

2つの政治体制の対立が際立って行く。






 

01.      西側と東側の生活水準には みるみる格差が生まれ

言論統制などにも反発する知識人や若者 農民など 多くが西側に

逃げ出した。   それまで東西の行き来はある程度自由だった。 



しかし、東ドイツ政府は極秘に計画を練り、1961年8月12日深夜

突然 東西ベルリンの境界線に鉄条網を張り、 翌日昼までに

往来を完全に封鎖する 「 ベルリンの壁 」 を作り上げてしまった。



ちょっと外出したはずの市民が 家族と分断された事例もあった・・

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       ( 鉄条網は順次コンクリートの壁に造り替えられた )






 

02.     「 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor 」

( 旧東ドイツ側からの姿、 西側からは裏面しか見えなかった )



ベルリンの象徴的存在だった このブランデンブルク門は

ベルリンの壁の東ドイツ側に組み込まれた。


門上の4頭立て馬車クアドリガ はナポレオン戦争時 パリに

持ち去られたが 1814年にプロイセン軍が取り戻したものだ。

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03.      「 ベルリンの壁崩壊 1989年11月9日 」


ベルリンの壁が崩壊した時の テレビ画面に映し出された光景は

衝撃的で忘れられない。 人々は 象徴的なブランデンブルク門

に立ちはだかる コンクリートの壁をまず壊しにかかった。



それまで お尻しか見えなかった彫像馬車を 門をくぐり抜け

旧東側から眺めて 感動した人々も多かったろう。



28年間という 歴史的には短い封鎖期間だったが 

人の精神と生活を支配した重苦しく長い時間だったに違いない。

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04.    ブランデンブルク門付近 ベルリンの壁の跡地に沿って 

石がライン状に埋め込まれている。   日本人が見ても感慨深い。



因みに 壁は 東西をスパッと直線で切り分けた訳ではなく 

川や道路 建物に沿いつつ、 またある面では本部の策略上

ジグザグと不定形に張り巡らされた。

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 *    *    *

 



 

05.     現在でも数か所 残されているベルリンの壁の実物。  

突貫工事らしい粗雑さで ヒョイと乗り越えられそうだ ・・

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06.    しかし、 壁はたいてい二重に作られ、 二枚目の壁を

越える前に 監視塔からの射撃を浴びて命を落とすのだ ・・

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07.  「 ベルリンの壁メモリアル Gedenkstatte Berliner Mauer」

記念館と壁とその地区全体が メモリアルとして保存されている。

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            (  記念館屋上からの風景 )








08.     道路沿いの壁は 建物自体に引き継がれる。



1961年9月25日、ベルナウワー通り Bernauer Strasse、

窓から逃げ出す東側の住民。   この後 窓はセメントで塞がれた。


逃げるため掘られた地下トンネルの西側の出口付近 (写真上右)

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        (  写真は 記念館の展示物とパンフレットから  )

 






09.     07.付近。  壁跡のラインと メモリアルプレート。

’ ここで2人が逃亡成功 ’ ’ Martin Mが逃亡を企てたが捕まった ’



東から西へ脱出しようとした 136人が命を落としたそうだ。

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 *    *    *

 




10.   さて、 東ベルリンと西ベルリンの境界線上には国境検問所

「 チェックポイント・チャーリー Checkpoint Charlie 」 が置かれた。



外国人および外交官 西側諸国の軍関係者が 徒歩か車で

通行するための検問所で 一般のベルリン市民は通行できなかった。

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                 (  検問所付近の道路  )








11.   この検問所は アメリカ統治地区とソ連統治地区の境界上に

あって 当時アメリカ軍が管理していた。 そこで今でも アメリカ国旗と

米兵 (の恰好をした人) が 観光客の写真の相手をしている。  



この検問所をめぐる 様々な脱出劇や外交事件などについては

隣りのミュージアムで展示されている。

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12.     1989年11月 壁が崩壊すると、 東ドイツの人々が

雪崩を打ってこの検問所を通過した。  



拍手と歓声を浴びながら検問を通過した 東独の大衆車トラベントも 

今や製造中止となり 古き時代のメモリアルとなって飾られている。

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13.  ところで 壁が崩壊する前の冷戦時代にも 東独を通過して 

ベルリンに 一本の道路と一本の線路が乗り入れていた。 

ビザを持っていれば 外国人の旅行は可能だったのだ。




まだ若かった bella-dannaさんも ソ連統治下のベルリンに入った。

黒く薄汚れた建物と寡黙な人々、、 陰鬱なベルリンを歩いた、、


美術館の帰り道 方向を失い 一人の男に道を尋ねた。 すると

車で送ると言う。 どこかに連れて行かれるかと半信半疑ながら

例の東独車トラベントに乗り込んだ。        男は




道中ほぼ口を利かなかったが 穏やかな人柄だけは伝わった。

外国人の検問所 チェックポイント・チャーリーの 遥か手前で、

余計な尋問を避けるかのように、 旅行者を車から降ろした。

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          (   別な場所にも ベルリンの壁の一部が残されている。 )







観光事業という意味では ベルリンの観光産業は まだまだ

緒に就いたばかり、というのが 今回の旅行で受けた私の印象だが



冷戦時代のベルリンとは隔世の感があった、と

dannaさんは つぶやいた ・・・








*    *    *    *    *    *    *

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コメント

bellaさん、こんばんは(^o^)/!
今回はドイツ・ベルリンですね。ベルリンは訪れていないので興味深く拝見させていただきました。
ベルリンの壁の崩壊からもうすぐ30年・・・、ということは壁で隔てられていた期間より長い年月が過ぎ去ったのですよね。
私も「ベルリンの壁崩壊」のニュースには驚きました。ホント「青天の霹靂」のようなニュースでした。さらにほんの数年後ソ連も崩壊しましたよね。世界が大きく変わった時代だったと思います。
ベルリンの壁については、かつて教育TVでドイツ語を学んでいた時、番組の中でも何度か取り上げていたのですが、それとはまた違う目線での紹介で益々興味深く感じました。
二重の壁と監視塔、地下トンネル、メモリアルプレート・・・どれも忘れてはならない「負の遺産」であり教訓でしょうね。
そしてbellaさんのご主人様が旧・東ドイツ時代にベルリンを訪れたときのちょっとしたエピソード、できればもっと詳しく聞いてみたいような気がしました(^_^;;ヘヘッ!

今夜も楽しいバーチャル旅行、ありがとうございました。

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