ジャガイモなんて食えない!という偏見を解いたフリードリヒ大王の秘策
ドイツ料理と言えばジャガイモ、 こんな当たり前の食文化が
定着した陰には、 土まみれのジャガイモなんて食べられるか !
という農民の偏見と強い抵抗を ある奇策で突破した
フリードリヒ大王の知恵があった。
01. 「 ポツダム Potsdam 」 はベルリンから西へ数キロ、
ブランデンブルク選帝侯が エルベ川の支流と運河に囲まれた
この絶好の地を 17C初め 居住地と定めた。
街の入口には 1770年建造の 巨大な
「 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor 」 が聳えていた。
02. 門のその先には ’ プロイセンのヴェルサイユ ’ と称される
広大な庭園と豪華な低層の宮殿が広がった。 まず目に留まったのが
宮殿前庭を囲む 優雅な半円形の列柱と羊の群れだ ・・
03. この 「 サンスーシー宮殿 Schloss Sanssouci 」 の主は
かの フリードリヒ大王 Frederick the Great (1712~1786) 。
彼は ’啓蒙専制君主’ の代表格で、 珍しくも本を書く王様だった。
30巻に及ぶ著書 「 反マキャベリ論 」 は、
息子が文化芸術にのめり込むのを嫌った父親王の目を避けて
当初 オランダで 匿名で出版された!
他に 「七年戦争史」 「 ドイツ文学論」 等の著書もある。
04. さらにフリードリヒはフルートの名手で 度々コンサートを開く
傍ら作曲もした。 フランス語に堪能だった彼は フランス文化にも
精通、 長年哲学者ヴォルテールと親密な交流を重ねた。
政策的には 拷問の廃止 貧民への種籾貸与 宗教寛容令
検閲の廃止 オペラ劇場の建設 アカデミーの創設 などを行った。
05. その一方 優れた軍事的才能も持ち合わせていた彼は
オーストリア継承戦争、 第一・二次シュレージェン戦争、 七年戦争、
バイエルン継承戦争など 18世紀中頃ヨーロッパ全域で吹き荒れた
領土争い戦争に 人生の大半を捧げた形となったが、 やがて
彼は数々の病を得、 そのボロボロの心身を癒す場所が必要となった。
( 庭園では ずっとワイン用ブドウの栽培が行われて来た )
06. そんな彼が 晩年暮らしたのが ここサンスーシー宮殿、
サンスーシー San Souci とはフランス語で憂いのないという意味、
ここ ” 無憂宮 ” で 彼は浮世のあらゆる心配事を忘れ
コンサートを開くなどして 芸術とりわけ音楽に没頭した。
07. そんな彼にはもう一つ面白い顔があった。 ジャガイモの
普及に努めた王なのだ。 ジャガイモはもともと インカを支配した
スペイン人が 16Cに花を愛でるものとしてヨーロッパにもたらしたが、
一般に食用として認知されるには 相当時間が必要だった。
先見の明があった フリードリヒは ジャガイモは飢饉の時は飢餓を
救い、 日常ではきっとジャガイモがパンの値段を下げる、 と考え
1756年 ジャガイモの耕作・普及に努めよ というおふれを出した。
しかし 土まみれで育つ根っ子玉、 味もそっけもないジャガイモに
犬すら食わぬぞと、 人々は なかなか見向こうとしなかった。
( サンスーシーの風景を乱すと 壊されかかったものの、
農民の嘆願を聞き入れたフリードリヒに 命拾いされた風車 )
08. まずは 少しでも人々の拒否反応を解き ジャガイモを
食料として受け入れて欲しいと、 彼はキャンペーンコインを鋳造した。
” Potatoes instead of Truffles トリュフの代わりにポテトを! ”
やはり土中から見つかる貴重なトリュフに なぞらえたのだ。
しかし ” 農民は知らないものを食べようとしない ” という
プロシャの諺通り 人々の拒否反応は相当頑なだった。
町の役人たちすらも そんなもの喰えんと
おおっぴらに王様にたてついたと言う!
( サンスーシー宮で 王様のお墓の前に座る 若い人々 )
09. そこで フリードリヒは一計を案じた。
ベルリン郊外に作ったジャガイモ畑の周辺を 如何にも高価なものを
守るかの様に 恭しく 軍隊に見張らせた。
その一方で 見張りに寝たふりをさせたり、 適度に隙を作らせると
狙い通り とうとう 臣民たちがジャガイモを盗み始めたのだ!
いったん食べてみれば ジャガイモ程美味しく便利なものはない。
10. ジャガイモあってのドイツ料理、 こうした彼の努力が
今日のドイツ料理の礎を作ったと言っても 過言ではないだろう。
彼は今 サンスーシー宮殿の庭で眠っている。 名が刻まれた墓石には
毎週新鮮なジャガイモと花束が添えられ 敬愛の情が示されている。
11. ところで フリードリヒは無類の女嫌いだった。
結婚した妻とは夫婦生活は無く 僅かに文通だけが続いた。
嫌いなだけでなく 事あるごとに女性蔑視を貫いたフリードリヒは
当然女性にも総スカンを喰らった! フランスのポンパドゥール
オーストリアのマリアテレジア ロシアのエリザベートなどが
戦時中 こぞって敵方に回ったのも当然の報復だったと言える。
12. 文武両道 公私共にこれだけ様々な業績を残した
大王だったが、 女嫌いそして人間嫌いの人生の末路は孤独 ・・
信頼出来て 慰め・生き甲斐となったのは愛犬だけだった。
遺言通り 彼は今 11匹の愛犬と枕を並べるかのように
12枚の墓石プレートの下 サンスーシーの庭で眠っている (写真11.)。
13. 宮殿を出て ポツダムの街角を進むと 美しくリッチな
家々が続いた。 白い花がこぼれて 小路を白く染めていた ・・
( ポツダムの子供たち )
街外れ やがて
ポツダム会議が行われた 「 ツエツイ―リエンホーフ宮殿 」 が近づいた。
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