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2018年1月

2018年1月26日 (金)

「ポルトガル・モンサント」 水は惜しみつつお使い下さい・コルクの木

   
ポルトガルの東部 スペインとの国境近くに位置するモンサントは


1991年、 国から 「 ポルトガルの歴史を物語る12の村 」 に

指定されて以来、  特に人々の興味を引くようになった。






01.     巨岩が折り重なる山肌に 未だに人々が暮らしている。


こんな細い山道にも 名前が付いていた。   ’ サルサ通り ’ 

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02.      巨岩を壁とする家、 屋根とする家、 いろいろあるが

ドア枠を白く塗り 花を飾った家々には 人のぬくもりがある。

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03.      山の頂上には 12世紀にポルトガルの王が築いた

古城と教会の遺跡がある。    19世紀には破壊されたが 

20世紀に修復が始まり、 1989年に一応終了している。

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04.      如何にも頑丈そうな山城だ。  石器時代から人が住み、


その後 古代ローマ、 アラブ、 スペイン など様々な勢力が この山を

強固な守備の要として欲した理由が分かる気がする。

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05.     少し幅広の通りに ゴミの集積場があった。


納得済みではあろうが、 生活のため村人が山道を登り降りする手間は

相当なものだろうと思う。

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06.     さて 晩秋のこととて 山中で泊まれる宿は一軒だけだった。


泊めてもらえて安心したものの、  ホテルのベッドの毛布は薄く  

室内のエアコンやスチーム暖房は作動せず、 寒さでガタガタ震えた!


洗面所のぬるいお湯も 室内の冷気ですぐに冷や水となった。



ホテル全体でも 受付脇の薪ストーブが唯一の暖房器具だった ・・ 

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07.     受け付けのお姉さんに頼み込んだが 暖房は付かないの

一点張り。     恐らく 彼ら自身が贅沢を排しているに違いない。



郷に入っては郷に従え、とはこのことだろう ・・・

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08.      そして 彼女は一枚の紙を差し出した。   ” 当宿では

風呂桶にタンポン (止め栓) は使いません。 モンサントで水は貴重な

資源ですから 環境のためにも倹約しつつお使いください ”




震えて目覚めた朝、 丸いブラウン管テレビから 情報番組が流れた。


出演者は 煉瓦を両手にシェイプアップ体操していた。 全国放送でなく

恐らく地方キー局の番組だと思うが、 余りの素朴さに驚いた ・・

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09.    宿を出る時、 たまたま受付嬢のお祖母さんが訪ねて来た。


編みかけを手渡し、孫娘に編み方を教える。 

カルチャースクール ・ ネットやマニュアル本を頼るのと違う世界、

家族の長老として 尊敬される様子が 手に取るようにわかった。




さらに 祖母と孫、従兄妹同士、なんども温かい抱擁を繰り返えす。


フランス人の 洗練されたエチケット抱擁と違い  ポルトガルの、

いまだ篤い家族関係が滲み出るような仕草だった 。。

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10.    なるほど、 水や暖房を惜しむ気持ちと 固い家族の絆とは

深い所でつながっているのかも知れない。



帰り道、 まるで村のゲートのような二つの巨石に出会った。

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11.      巨石の向かい側には 小さなお社と祭壇があった。


日本でもお地蔵様に果物をお供えしたり 赤いエプロンをかけるように 

この巨石に ロウソクや花を供える人もきっといるだろう。

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12.     モンサントは 農地が少なく 羊 牛 豚 ニワトリなど動物が

たくさん飼われていて、 イノシシや鹿の肉など ジビエ料理も普通にある。



しかし ポルトガルと言えば 何と言ってもコルクの木だろう。  

我々が日常使うコルク栓は コルクの樹皮から作られる。   


樹皮は剥がされたあと 何年後かに再び復活する。

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           ( 数字は 樹皮を剥がした年を メモライズしている )






13.      モンサントにやって来たなら 、 絶景ハンターのように

風変わりな巨岩家屋に目を丸くして 写真をバチバチ撮るばかりでなく、  
 

そこに住む人々の素朴な息遣いを 謙虚な心持で 感じてみたいものだ・・

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モンサントの コルクと羊がいる風景は  何故かは知らねど、


ヨーロッパの 羊がいる他のどんな風景より 深く心に残ったものでした 、、、 








゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

2018年1月19日 (金)

「ポルトガル・モンサント」 奇観!巨岩住居・ レストランでの話!


「 モンサント Monsanto 」 は ポルトガルの東部、スペインとの国境近くの

山岳地帯、   丸い巨岩がゴロゴロと重なる山腹にある小村だ。



鷹の巣城とも言える古城遺跡を山頂に抱く 不思議な景観を見せている。






01.    この山は 先史時代より 聖なる場所としてあがめられていたが、

巨岩を友とした このような家に 12世以来人々が住み始めたと言う。 


石への信仰を思わせる石の十字架もあった。  



モンサントは ’ 最もポルトガルらしい村 ’ の称号を得てはいるものの

ポルトガルの中で 最も奇異で 又とない特別な村と呼べるだろう。

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02.     最寄りの都市 カステロ・ブランコから 東に50kmほど山間に入る

のだが、 幾つもの丘を 越えても越えてもなおたどり着けない辺境の地だった。


徐々に道は細くなるが、 途中 原子力発電の冷却炉と思われるものがあった。 


どれ程人里離れているか 想像に難くないだろう ・・

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                                 ( モンサントは 岩山の標高758mに位置している )






03.    夕方到着したが 10月末はもうオフ・シーズンだ。  昼はともかく、 

夜 営業するレストランは一軒のみ。  入口は2つの巨石に挟まれていた。

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04.     お腹を空かせて入ったレストランは 家族経営で、 その夜は

若い青年がマスターだった。    地元のおじさん達が飲んでいた。



壁のそこここに 巨岩が突き出ていて、  余白にに文字が書かれていた。


例えば カステロ・ブランコからモンサントに移り住んだ詩人 アントニオ・

サルヴァドや  ポルトガルの作家 フェルナンド・ナモーラなどの詩が

書かれている。       文字は彼のおじさんが書いたそうだ。




後日 ポルトガル語ネイティヴの女性に 翻訳して、 と頼んだが 

難しい人生の詩、 とっても無理と 笑って逃げられた ・・・・

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05.    メニューに英訳は付いていたが ポルトガル料理の解釈に四苦八苦、

すると 一人の女性がブタ肉料理にしたらいいわよ、 とアドヴァイスをくれた。 



料理は垢抜けてはおらず、 リゾットやデザートのライスプディングには苦戦した。

しかし ハムやスープ 肉料理は美味しく 身体が温まった。

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06.    アドヴァイスをくれた女性は 毎晩ここにビールを飲みに来る。


もしかして 芸術家でいらっしゃる ? と、尋ねたら  よくわかったわね、と

驚いていた。    彼女はオランダから移り住んだ彫刻家だった。



ロダンの女性弟子 カミーユ・クローデルも 子供の頃から故郷近くの巨石群に

インスピレーションを感じていたというが、   この彫刻家にとっても 

モンサントの奇岩は大いなる芸術の友なのかもしれない。



デッサンしたいから写真を撮らせてと私が言ったら、 幾つもポーズを

取ってくれた。    さすがアーティスト、 話がさっと通じた !

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07.     満腹・ほっこりして 宿に帰ったが、  その夜 なんと部屋に

一切の暖房がなく 凍えるような夜を過ごすことになった・・・

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08.      宿のポサーダ (国営ホテル 写真上段) は 転げ落ちそうな

急勾配の道に面していたが 一応大通りだ。   山の上には古城廃墟がある。



そして どんな寒村でも例外がないように、  ここにも教会と薬局があった。 
 

恐らく ファーマシーは古来より 医者の代わりだったに違いない。

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09.          村を巡ってみよう ・・

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10.         今も残る 洞窟 Gruta 住居跡

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11.         ここも住居だ。

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12.    ところで、 残念ながら滞在中は とうとう霧が晴れず仕舞いだった。

いかにも観光地らしい 晴天の風光明媚なモンサント風景も素晴らしいが、 


霧に佇む巨岩家屋は ある意味ラッキーにも 一層不思議な魅力を湛えていた。



岩そのものへの信仰心と 不便さを含めた故郷への愛おしみから

そこを離れない老人たちの思いが 霧の間にまに伝わって来るようだった。

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13.     こちらは オフィシャルサイトが掲載している晴天のモンサント。

我々がディナーを食べたレストランだ。     趣きが相当違うが、


村の裾野にかけて 赤い屋根の普通の住居が広がるのもわかる。    

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どのような村や街にも オールドタウンとニュータウンが存在する。 


オールドタウンは たいてい完全な観光地化するが、    しかし 



モンサントは その辺鄙さゆえに 有史前の尊厳を保ったまま そこにあった。








                      つづく









★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
   

2018年1月12日 (金)

「南仏アヴィニョンの橋」「アヴィニョン捕囚」 疑問が解けました~


  アヴィニョンと言えば、  世界史で出た 「 アヴィニョン捕囚 」 と 

「 アヴィニョンの橋で輪になって踊ろ・・ 」 の歌が有名だ。    



しかし  私はと言えば、、     子供の頃は

教皇はアヴィニョンで囚われの身だったんだ 、、  と思ったり

アヴィニョンの橋で ” 鬼ダンス 鬼ダンス ” と 歌っていたふしがある。






01.    これがアヴィニョンの橋 「 サン・べネゼ橋 Pont St-Benezet 」。


全長900mあった橋は 1669年の大洪水で流され、 残った半身の姿を

今は 滔々と流れる夕映えのローヌ川に映している。

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02.     そして これが 「 法王宮殿 Palais des Papes 」。


ぶ厚く高い壁、 窓を最小限に留めた要塞のような巨大宮殿。 

法王と言えど 敵対勢力の攻撃に備える必要があった時代だ。



遠景では 14Cに造られた旧宮殿と新宮殿、大聖堂などがズラリと居並び

城壁で囲まれた教皇都市が 相当大きかったことがわかる。

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03.  美しいラヴェンダーの向こうにサン・べネゼ橋が見える (上段)。 

橋の下に今は環状道路が走っているが、     昔は ダンスをしたり

人々が集まるような ある程度のスペースがあったと目測される。 



城壁の一部には 「 ドンの岩山 Rocher des Doms 」 (中段) がある。


その岩山は ローヌ川やサン・べネゼ橋を見下ろす 

絶好のヴューポイントとなっている (下段)。

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04.   旧市内は相当広く傾斜もあるので  ’ プチ ・ トラン Petit Train ’ 

で見物するのが便利だ。

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05.   プチ ・ トランの発着所となる 法王宮広場には、 大勢の観光客

尼僧やミュージシャン 大道芸人などがいた ・・

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06.     さて ” 鬼ダンス ” は ” On y dance 人々がそこで踊る ”

という歌だと やがて分かったのだが、   しかし


” 橋の上で輪になって踊る ” には橋が狭すぎるのでは ?!



これは ’ Sous le pont 橋の下で ’ という元歌詞が、 いつの間にか

’ Sur le pont 橋の上で ’ に変えられてしまったというのが真相らしい。



その方が如何にも楽しそうなシーンがイメージされるが、  実際は 広々した 

橋の下・たもとで 人々は集い踊り、 いろんなことをしたのではないだろか。

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07.      プチ ・ トランではフランス人家族と相席となった。  

ぺぺ (じいじ) と メメ (ばあば) は 初孫が可愛くて仕方ない。


彼らのウキウキ感が伝わって来る。     間もなくすると、 

ペペが孫に聞かせようと 指先を振りながら あの歌を歌い出した !

” Sur le pont d’Avignon on y dance, on y dance ・・・・ ”




当たり前ながら フランス人もあの歌を歌うのだ、、  しかも現場で、、、!

正に橋の下をくぐり抜けながら 私も一緒に歌った。  動画にも収めた。


また一つ 忘れられない思い出ができた瞬間でした ~

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                          ( アヴィニョンの橋の橋脚は こんなに狭い )







08.      さて 「 アヴィニョン捕囚 」 は カトリック・ローマ法王の都が

ローマからアヴィニョンに移されていた時期 ( 1309年~1377年 ) を指す。



法王の都には あらゆる富と権力が集中する。   法王を奪われたローマに

とっては 確かに ”捕囚” であったが、   アヴィニョン側から見れば 

又とない好機、 湧きたつような我が世の春を謳歌した時代だった。       

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           ( プチ・トランから ずっと街角の風景を見ながら 進みました ~ )






09.   当時は ドイツ皇帝やフランス王と ローマ法王との間で 教会領地

課税権 聖職者の任命権などについて 激しい権力争いが続いていた。



そんな中 フランス王フィリップ4世 ・ 美貌王は 自分の息のかかった

ボルドー大司教を法王に選出させることに成功。   それが  結局は 


’ キリスト教世界の首都 ’ をアヴィニョンに遷都することに繋がったのだ。

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           ( 靴屋 右上 ”大量放出” ”出血価格” 日本と表現が同じ ! )






10.      法王が一人移動すると 役人や行政機関も移動する。

護衛や職人、コックも移動する。 医者や美容師 道化までついて行ったと言う。


もともとテーブルマナーやレース・装飾品などをフランスにもたらしたイタリアだ。

画家や建築家など あらゆる先進的なものをアヴィニョンに送り込んだと思う。


そして アヴィニョンは 各国の高位聖職者から普通の巡礼者まで 

多くの旅人が出入りするメッカとなった。



そうなると地元の手工業、 染色 織物 刺繍 金銀細工 宝石・ガラス細工

加えて農畜産業も、 ありとあらゆるものが活気づかないはずがなかった。

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11.    さて 当夜は法王庁広場 赤いパラソルの辺りで食事をした。 


食卓の先 法王庁の灰色の壁をバックに 貧相な半ズボンの男が歌い出した。

が、 そのアリアは 意外なほど澄んで美しく 外見とのギャップに驚かされた。




テーブルは オートバイでやって来た2組、 イタリア人夫婦とオーストリア姉さんと

隣り合った。  カッコいい姉さん(写真右)は  イギリスでオートバイを買い

南仏 スイス ドイツ そして北仏をツーリング、英国でまたバイクを売るんだそう。



単身ユースホステルに泊まりながら  本を著すため旅日記を綴っているとか。


南仏エズ村の急勾配坂で転んで泣いた、、 と言う彼女に コモ湖から来た

イタリア人が ” バカ ” とつぶやいたのを 私は聞き洩らさなかった ・・

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12.     ここは アヴィニョンのメインストリート レピュブリック大通り。

ホテルの窓から プラタナスの大樹とカフェ・レストランの朝の風景が見渡せた。



法王庁がローマに返されたあとも、 フランス大革命までは アヴィニョンは

法王領として華やかな繁栄が続いたというから、 この大道りも 時代ごとに

どれ程多種多様な人々が闊歩して来たことだろうか ・・

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13.      サン・べネゼ橋は 夕方ゲートが閉まるので 日中行くとよい。

昔は洪水も多く、 手摺もなかったし 踊ったら危険でした~ 



法王庁など 内部はあまり見るべきものはない。   アヴィニョンは

街を訪れて おやまあ~とビックリする、   それで十分だと思う。

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法王庁都市がもたらした繁栄とその余韻は どっちみち 思想や文化の

奥深い所に浸透してしまい、   簡単には見えないでしょうから ・・




それより ’ 鬼ダンス ’ や ’ 法王が本当に幽閉されていたのか ’

と言った馬鹿な疑問が解けて 本当にホッとしました。 




これこそ旅の醍醐味でしょうか !  









・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆    

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