« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

2015年2月27日 (金)

「サラゴサ」は巨大聖堂とゴヤの街  そして 話題のアギーレ監督の街

スペインアラゴン地方の ちょうど真ん中あたり、 エブロ川流域の大都会 サラゴサにやって来ました。



「 サラゴサ Zaragoza 」 は 12世紀来 アラゴン王国の首都として栄えた街で、

びっくりするほど巨大な 大聖堂が待っていました。







01.       「 ピラール聖母教会 Basilica de Nuestra Senora del Pilar 」

ピラール広場を挟んで、 向かい側のホテルにチェックイン。

01







02.      ヨーロッパの典型的な 天高くそびえる教会と違い、 幅120mはあろうかという 

横長の堂々たる教会で、 イスラムの面影を残すムデハル様式と ゴシック様式・バロック様式が混ざリ合い 

なんとも不思議な魅力を放っていました。




早速バルコニーから 写真を撮ることにしましたが、 大きすぎて カメラに収まりませんでした ~

02







03.    ” ピラール ” は 柱という意味で、 エブロ川で祈りを捧げるヤコブの前に 聖母が現れ、

自分を模した木像と碧玉の柱を与え ここに教会を建てよと命じたという。




39センチしかない ” ピラールの聖母像 ” は 小さいけれど 大きな聖堂の立派なご神体であるので

カメラは禁止でしたが、   お土産屋さんで そっくりに再現されたマリア像を間近かに見て 

なるほど、こういうものか・・ と、 納得しました ~ ! 

03

(  右上は ゴヤが描いたピラールのマリア、  祭壇とマリア像の写真は 紹介サイトから、 

マリアの柱の部分には 祭礼ごとに 異なる色の布が巻かれます  )







04.        ピエドゥラ橋 を渡って エブロ川の対岸から  ようやく 

ピラール聖母教会 ( 最終的な建設は1681~86年 ) の全貌を 捉えることが出来ました 

04







05.             如何にも頑丈そうな ピエドゥラ橋の向こうに  

「  大聖堂 ラ・セオ La Seo  」 の塔がそびえています。

05







06.     サラゴサは 何と言っても長い歴史を持つ街なので あちこちに ローマ時代の遺跡がある。 


                                                           




ところで 思い出すのは サッカー日本代表の前監督 アギーレ氏。  短いお付き合いでしたが

今話題になっている事件は 彼が率いた ここのクラブ 「 レアル・サラゴサ 」 にまつわるものだ。 





ハビエル・アギーレ氏 Javier Aguirre は 実はメキシコ人。  しかし 両親は

スペインのバスク地方からの移民で、 血そのものはスペイン人と言えそうです。



アギーレさんのニックネームは  ” エル・バスコ El Basco ( バスク人 ) ” 。 

画家の エル・グレコが ” ギリシャ人 ” とニックネームで呼ばれたのと似ているが、  確かに

しっかりした面構えはバスク人のそれだし、 名前もフランシスコ・ザビエルの Javier だし、

在位がもう少し長く続けば もうちょっと馴染みを感じたかも知れませんね。




良し悪しは別として   トルシエとか オシム、ザッケローニ などは 

それなりに個性的な印象を 日本人に 残して来ました ・・

06

                                        (   右上は 市場   )







07.       みんなが 代わり合ってまたがるので  馬の背が ピカピカ !

07







08.         「 アルフォンソ一世通り  」

08







09.       レストランでは 古い映画がサイレントで映し出されていました。   

動くオーナメントとでも言いましょうか、 お洒落な演出でした ~   イカ墨パスタ、ハモン・イベリコ、

アスパラの天ぷら、 どれも美味でした。  デザートの屋台が来たので、あれこれ選びましたよ 、、 

09

 







10.     さて 上の 「 ピラール聖母教会 」 の壁や天井には びっしりと彫刻や絵が

描かれていますが、 これは「 ゴヤ 」 の作品。  晩年の ’ 黒い絵 ’ の萌芽が見え隠れしています

10







11.        そう、 サラゴサは 画家ゴヤが活躍した町でもあるのです。  

11







12.       夜の 「 ピラール聖母教会 」 は 素晴らしく幻想的でした !   ところで

宮廷画家として活躍したゴヤの 生誕の地は  「 フエンデトドス Fuendtodos 」。

12






サラゴサから南に45km、 荒野の一隅に佇む 極貧の村でした。 




翌日は 急きょ、  フエンデトドスに ゴヤの生家を訪ねることにいたしました ・・



                              

2015年2月20日 (金)

「ザビエル城」・「何故ザビエル城近くにレストランYamaguchiが!?」

ポルトガル人、と思われている 宣教師フランシスコ・ザビエルは 実はスぺイン人、

しかも スペイン北部ナバーラ州にある 大きなお城に生まれたプリンスでした。







01.    サングエサ Sanguesa という町の北東7kmに

「 ハビエル城 Castillo de Javier 」 がある。 この城は ザビエルの母が

結婚に際して持参した城で、       「 ザビエル San Francisco Javier 」 は



1506年 夫婦の6番目の子としてここに生まれた。   彼は 22年後  留学中のパリで 

イグナチウス デ ロヨラと出会い、 共に 新しい修道会「 イエズス会 」 の基礎を築くことになった。 

01







02.     ポルトガルから 宣教師として派遣されたザビエルは 日本ばかりでなく インドのゴアや

中国のマカオなどに上陸している。   展示品の中には 多数のエキゾチックな品々が見られました。

02

( この古い本にもあるように 彼の名は クサヴィエー、ハビエル、ジャヴィエル、などとも発音される )







03.     日本関係の展示品も多数ありましたが、   特に 日本の戦国大名大内義隆による

当時の様子を伝える掛け軸には、 侍など 人々が彼らを丁重に迎えた様子が 興味深く描かれている。

03







04.     「 ハビエル城 」 は 見ての通り、 荒涼とした丘に建つ 純粋に戦の為に造られた要塞で、

1515年 ナバーラ王国がカスティリャ王国に併合された際、  戦略的構造を持つ城の一部と

周りの城壁をすっかり解体されるという憂き目にあった。     




その後 20世紀に改修工事が始まり、 今日では ザビエルが創設したイエズス会が運営する博物館となっている。 

04







05.     さて、 作家の司馬遼太郎一行が 1980年代に 「 ハビエル城 」を訪れた際

隣村の 「 Yamaguchi ヤマグチ 」 というホテルに泊まったとの記述があった。



そこで私達も Yamaguchiを探した。    城から4~5km北 イエーサという小町だったが 

幾筋かの道路を行きつ戻りつ やっとその名を見つけた時は さすがに嬉しかった !




ヤマグチは ザビエルが足跡を印した周防の王 大内氏の都・山口にちなんだ屋号だ。

05

 

06.     午後3時、労働者たちが 昼休みを取っている時間帯だった。 カウンターのお姉さんに

いろいろ聞きたかったが スペイン語オンリーで、 ニコニコ恥ずかしそうに顔を伏せるだけで 埒が明かない。




司馬によれば Yamaguchi は 1960年にオープン、 平屋に食堂と宿泊部屋があったと言う。

それから50年以上も経っているから、 建て替えがあっても不思議ではないだろう。

まして 名前の由来など 従業員や地元民は知る由もなかった。  




ハポンからわざわざ来たと伝え、テレビのサッカー中継を聞きながら コーヒーを飲んで さよならした。

06

 





07.    それから さらに北東に4km、 泥灰岩質の岩峰を登って その日の宿、レイレ修道院に着いた。



「 レイレ修道院 Monasterio de Leyre 」 は ナバーラ王国の信仰の拠点として

11世紀初頭に創建された。  その威光は 60カ村と70の教会・修道院に及ぶものだったと言う。 

07







08.     私達の部屋は修道院の中庭に面していた。  すぐにスケッチブックを取り出した。

前日の パンプローナのサン・フェルミン祭の雑踏と比べたら まるで天国の静けさだ ・・

08







09.     特筆すべきは ここの 中世ロマネスク初期様式の地下礼拝堂 ( 1057年 )。 

石造りの総重量を支える柱が 下に行くほど細くなり、 見事な造形美を誇っている !



建築に詳しい人なら 一層理論的に面白いと感じるかも知れない ・・

09







10.     この修道院のレストランのディナーは フルコースにワイン又はミネラルウオーター付きで

16ユーロと格安だった。 この日は美味しいヒレ肉が入ったから いつもよりレベルアップだった、そうだ。



奥さんがシェフで 旦那さんがフロア担当だ。  ここは安くて美味しいから日本の人に沢山来てほしい、

口コミは ’5’ を付けておいて下さい、と 言付かりました ~

10







11.    さて、翌朝食の雑談の中で、 「 Yamaguchi 」 のことが 少し解明された。

現在ヤマグチは2軒あり、 なんとその一方の2階に レストランの夫婦が住んでいると言うのだ。 



昨日訪ねたヤマグチでは 店員に何一つ通じなかったと言ったら、 

あゝ 彼女には外国語は無理ですよ、と笑った。




しかし 彼もヤマグチという名の由来を知っている訳ではなく、 ipadを使いながら ザビエルの動線や

山口のことなどを 説明すると、   もともと 地元民として ’ ザビエル愛 ’ に燃える彼、

レストランのネーミングの由来を 早速ヤマグチのオーナーに今日伝えるよ ! っと 目を輝かせました。 

11

(  修道院から イエサ Yesa 人造湖と アルティエダ山脈の 見事なパノラマを望む  )







12.     ところで 山口県の旧ザビエル教会は 残念ながら 1991年9月に火災で全焼してしまった。

再建された 「 山口ザビエルメモリアル教会 」 は モダンで 昔のしっとりした趣きは全く無い。




レストランの彼に見せたのは 昔の教会だったけど、 もともと超重量級の古めかしいハビエル城などを

見慣れた 彼の眼には えらくシンプルで簡素な教会に写ったに違いない。



あの偉大なザビエル様の教会が こんなに質素・・・   彼の顔に 微かな戸惑いの表情が浮かんだ。 

こっちの新しい モダンな教会を見せていたら どんな反応だったろうか 、、

12

それにつけても、  彼らは Yamaguchiが まさか日本語とは つゆ知らず、


私達も Yamaguchi などというレストランが スペインにあろうとは つゆ知らず、


こうして現代生活を送って来たが、  



ザビエル自身は  天国で   ニヤリと膝を打っているかも知れない !






                               






蛇足だが、  ザビエルは中国の上川島で亡くなり、 棺に石灰を敷き詰められて海岸に埋められた。

その後掘り起こされた遺骸は マラッカに運ばれ、   続いて インドのゴアに移された。

いずれの土地でも 棺の蓋を開ける度に 遺骸が腐ることなく 生けるが如きであったという。






そのゴアで珍事が起きた。  ひしめく群衆に 3日間だけ遺体への拝観が許されたのだが、

イザベラ・ド・カロンという貴婦人が 彼の足に接吻するや     やにわに 

ザビエルの右足の第4指と 第5指を噛み切って逃げ去ったのだ!




彼女は 生涯それらを大切にしたが 死ぬ時にゴアの聖堂に返還した。  

その2本のうちの1本が  1902年、 今回の 「 ハビエル城 」 に移されたと言う。





話はそれだけではない。 遺体が腐らないという奇跡の証拠を重んじる ローマカトリックから

「 遺骸の右腕を切断して送れ 」 と命令が出される。 その右腕は 今ローマのある聖堂に

収められている。   その写真は ブログの ’ ローマ編 ’ でお伝えできると思う。






さらに驚くことに その右腕は 昭和24年、 なんと日本に 一時里帰りしたのだそうだ !

本当に  宗教とは なんと凄まじいものだろうか ・・・


                                                            

教科書の写真でお馴染みの 髭のザビエルさんでしたが 


改めて ある意味 普通の人間の人生が彼にもあったし、  ある意味 偉人として


世界に尋常でない影響を及ぼした人でもあったと  改めて認識した旅となりました。




   

2015年2月13日 (金)

隅田川と浅草の ’ スカイツリーと浮世絵と ’ 

梅の花便りも聞かれ、日差しも春めいて来た今日この頃


隅田川の水上バスに乗船 その後 浅草界隈をぶらぶらして来ました ~







01.     日の出桟橋を出航して レインボーブリッジをくぐり、 


お台場から浅草方面へと折り返す 約2時間のクルーズ。  船は屋根も窓も透明板でしっかり覆われ

デッキに出て写真を撮るなどは 叶いませんでしたが なかなか楽しいひと時でした ~

01







02.      帆船と船の科学館 フジテレビが 重なり、 如何にもモダンな東京湾風景です

02







03.     東京湾をUターンして 隅田川を遡り 浅草に着くまでには、 

勝鬨橋や永代橋 両国橋や駒形橋など 14の橋をくぐりました。 




配られたパンフレットの 明治・大正時代の隅田川の風景写真は とてもノスタルジックですが

現代の隅田川にも 積み重なる歴史の重みと 豊かな風情を 十分感じることが出来ました !

03

 






04.        金色の総鏡張りのビルに写る スカイツリーのこのショットは  

川の船から、 しかも この位置からしか 撮れないそうですよ ~ 

04







05.     これは 下船後 対岸の道路から撮ったもの。  



この場面、 北斎や広重などの浮世絵師だったら いったいどんな構図で描くでしょうか ・・





因みに アサヒビールのホール屋上 金色のモニュメントは ’ 燃え盛る炎 ’ をイメージしており、

左隣のアサヒビールタワー屋上は こぼれんばかりのビールの泡を表現しているのだとか。

05







06.     なにしろ 歌川国芳さん、 現代のスカイツリーを予見した版画を描いているんですから !


実際は ’ 井戸掘りやぐらだった? ’ とは言われていますが、 なんともロマンをかき立てられます。

06







07.       さて こちらは 浅草仲見世通り、   相変わらずの賑わいですが

以前にも増して 外人さんがたんと来ておりました。

07

 







08.      早くも 寒桜が咲き、 提灯には芸者さんの名前がずらり 、、、

08







09.      土産物店も 外人さんに特化した品ぞろえ

09







10.       雷門で定番のスナップ風景。   中国からの観光客、お洒落さんですね。

10







11.     ここにも スカイツリーが !    手前のお兄さん、’ バニーのテーマパーク ’ 

という看板を提げています。   もしかして バニーガールでもいるのかなと思いましたが、


30(匹)ということですから 間違いなく ガールでなくウサギ なんデショね !!

11

 






12.     ’ もつ焼き店 ’ の看板人形。 超近代的なスカイツリーと 江戸の風情を残す浅草、


それらが 対照的であればあるほど、   そこかしこに  昔の浮世絵師にも現代のアーティストにも 

インスピレーションを与えそうな種が落ちています ~ 

12

 

 

浅草ばかりでなく 隅田川界隈、 東京湾エリアが オリンピックに向けて 

また一段と整備されていくのかなと思うと ハラハラするような ワクワクするような ・・



そんな ミニツアーとなりました。

2015年2月 6日 (金)

今日の絵画  《 パンプローナの女 》


頬を刺すような北風と  キラキラ煌めく春の光が


押したり 引いたり の今日この頃です







01.       季節を大幅に先取りして   《 
紫陽花とダリア 》  デッサン

Photo







02.         《 
パンプローナの女 》     油彩

Photo_2




スペイン ナバーラ州のパンプローナを訪問して、 

牛追い祭りや闘牛そのものの 華やかで荒々しいエネルギーに触れましたが、



表面的な大騒ぎの中でも

人は皆 心の深い所で より良い人生への模索を続けている、と感じました。




とりわけ エージェント ・ モニカ嬢の 恋と仕事を含めた人生と、 憂いを秘めた瞳が 

私にとって 忘れ難いものとなったのです ・・

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2023年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

カテゴリー

リンク先

フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

ココログフレンド