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2014年8月

2014年8月29日 (金)

「郵便配達夫がつまずいた奇妙な石」「理想宮はゲテもの?アート?」

フランス南東部 ローヌーアルプ地方・ドローム県の オートリヴ Hauterives という町には

郵便配達夫が たった一人で築き上げた 「 理想宮 」 がある




01.    オートリヴは 人口1500人ほどの 農地に囲まれた平凡な町だが、 最近は

「 理想宮 」を訪ねる人のため、静かな町のあちこちに看板が立てられ 駐車場も整備されるようになった

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02.    この石の宮殿は 長さ26m 幅14m 高さは18m程の大きさで、



東の側面に居並ぶ 「 3人の巨人 」は 今も 遥かな理想を追い続けているようだ

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03.    郵便配達夫 フェルディナン・シュヴァル Ferdinand Cheval は 

理想宮の建設を 「 私以上に辛抱強い人にしか出来ない苦行 」と表現し、 


経験した壮絶な苦難と その同量の誇りを言い充てた言葉や文を あちこちのパネルに残している



「 空想上の宮殿の入口 」「 夢想に捧げた人生 」「 神・祖国・労働 」「 たった一人の人間による仕事 」

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04.    さて この 理想の宮殿を建てるという途方もないアイディアは 1879年4月のある日、


彼が石につまずいたことから始まった。  その石が 階段を上がった2階テラスにあるという

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05.    ありました!    通路右手、 銅像の台のようなものに乗っている

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06.    ” ある日配達から帰る途中、テルザンヌ Tersanne の手前で 私は石につまずいて

転んだ。 私が躓いたものが何だったか 目を凝らすと 何とも言えず奇妙な形をしていた。 ”



” お守り代わりにポケットに入れて持ち帰ったが、 翌日も同じ場所で もっと美しい凄い石を見つけた。



それらは 水の流れが長い時をかけて作り上げたもので、

人間が真似しようとしても 到底作り得ないほど変わった形だった ”

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07.    ” 自然が 彫刻家になったのだから 僕は 左官になり建築家になる ! ”



” しかし、そのことは誰にも言うまいぞ。 人は私を馬鹿にするだろうし、  第一 私自身が

おかしなことを思いついたと 自分で笑ってしまうくらいだから・・  ”



彼はこんな村の道を 仕事とは別に 何度も何度も往復して 石を集め、運び続けた

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08.     さて、彼は 理想宮の内部地下に自分の棺を納めたかったが、 当時フランスには 

火葬と言う習慣も まして火葬場もなかった。 村の規則や教会の決まりもあって それは叶わぬ夢となった 

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09.  そこで彼は 村の墓地の方に 自分の墓を作ることにした


” 私は当時77歳 自分の夢の宮殿を33年がかりで作り上げた。 幸いなことに 自分の墓を作る気力が

まだ十分あったし 健康にも恵まれ、 さらに8年間の重労働の末 自分の墓を完成させることが出来た ”




墓が完成した2年後 1924年 彼は88歳で死去、 「 終わりなき静寂と休息の墓 」 と

自ら命名した墓に埋葬された。     (  今 この墓の内部に 入ることは出来ない  )

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10.     さてフランスでは、 印象派たちの輝かしい活躍などがあって 他国より芸術的感覚は

一歩進んでいたはずだが、 実際は 20世紀末まで 芸術界は 昔ながらのアカデミズムに支配され

シュヴァルの芸術は  ” はぐれ ” や ” 異常 ” などと  正当に評価されることはなかった





それどころか 当時の文化庁の見方は ” 醜悪極まりない 狂気の沙汰。  愚かな田舎者が作った 

おぞましい岩の塊り ” と 散々だった。





しかし、 1930年頃に  アンドレ・ブルトンや ピカソなどに支持されるようになり、1969年

やっと 時の文化大臣アンドレ・マルローが ” 確かに 幼稚な部分もあるが フランスが世界に誇れる

ナイーヴ アート L’art naif だ ” と認め  文化財として登録されるに至りました

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11.    さて私は オートリヴを出たあと 北上し、 ヴィエンヌ Vienne に向かった



紀元前からローマの植民地だった ヴィエンヌには ローマ神殿や 円形劇場などがあり、

古いものには事欠かないヨーロッパの町の代表例を 当たり前のように眺めてまいりました



街路を 菊の花が飾り、 日本の花がこんな風にアレンジされていると 

こちらの方にずっと新鮮な感動を受けたのが 面白かった ~~ !

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12.    丘の上から ローヌ川と ヴィエンヌの街を一望



30km先のリヨンには 翌日向かうことにして、 この日は 

ヴィエンヌ郊外の  庭の池に白鳥が泳ぐ 高級邸宅レストランホテルに一泊

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ローマの神殿などが 普通に残っている文化からしたら、 シュヴァルの理想宮は 

確かにゲテモノかも知れないし、   新鮮な前衛アートかも知れない、、






見事に洗練された 芸術的フランス料理を食べながら いろいろ考えた夜となりました  ・・・ 

2014年8月22日 (金)

「郵便配達夫の理想宮」 "好奇心で中に入ったが 出た時は恋に落ちていた"

フランス南部 リヨンの南方60km  「 オートリヴ Hauterives 」 という小さな村に

シュヴァルと言う名の 一人の郵便配達夫が作った 奇妙な建築物がある




その名は 「 シュヴァルの理想宮 Palais ideal du facteur Cheal 」                 





01.    美しい川を越え、 幾重もの農地の襞を越え、その村を探し当てた ・・  

車のナビ無しでは 到底無理だったかも知れない

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02.    11月の午後3時、もう日が傾きかけていた。 日頃 巨大な大聖堂や城塞を見慣れて来た目には


こじんまりした宮殿に見えたが、    待てよ、一人の人間が 石ころ一つづつ 手作業で作ったのだ !

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                                            (  北側  )





03.    1873年、43歳になった郵便配達夫 フェルディナン・シュヴァルは 仕事の道すがら、

ソロバン玉が繋がったような 奇妙な形の石につまずいた。不思議な形に魅了された彼は 一個また一個と 石を


集め出す。 仕事のついでに集めていたものが、 徐々に 石拾い専門に10キロも遠出するようになった 

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                                            (  東側  )





04.    庭先に その石を積み上げていったものが 彼の宮殿の始まりだった。 毎日あちこち

下を向いて徘徊し、 庭では奇妙な建築物を積み上げる ・・ 。 村人がヘンに思わないはずがない。

人々が彼を変人扱いし 白い目を向けたのも当然だった。 




ある研究者は 彼は 物事に偏執的に拘る ナントカと言う精神病だ、と分析しているが、   確かに

病的なほどの根気と意欲がなければ こんな立派なものを作り上げるなど 到底出来なかったかも知れない

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05.    宮殿の四方には イーストサイドとか ウエストサイドと 名前が入っているが

文字通り世界の四方からの モスクやカテドラル、教会や城が 彼の宮殿に採り入れられた。 
 




身の回りの動植物は 当然大切な素材だが    特に、 田舎の貧しい郵便配達夫にとって 

仕事の一端で目にする絵葉書は 格好のイマジネーションの素になったらしい 

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                                            (  東側  )





06.    ミニチュアの建物には ヒンズー寺院、スイスの礼拝堂、ホワイトハウス、アルジェリアの四角い家、

などと刻印されている。  ( 日本的なものはなかったような気もしますが ・・)

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                                              (  西側  )





07.     この建築物は 勿論石ころだけで出来ている訳ではなく、 石と石をつなぐのにワイヤー、

壁や土台を固めるのにセメントなどが使われている




彼の理想宮は 1912年 シュヴァルが77歳の時、 のべ9,3000時間 33年間かけて 完成された

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08.    妖精のような坊やに導かれて 建物の内部の通路を歩いたり、階段で2階に上がったりした ・・



地元民は 最後まで彼に距離を置き、 この宮殿の中に墓所を設け 永遠の眠りに付きたいという彼の願いを

拒否した。  そこで 彼は 村の墓地の方に この宮殿と似たような雰囲気の墓を作っている

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09.    しかし、 建物が完成すると このセンセーショナルな宮殿はマスコミにも取り上げられ

徐々に見物客が来るようになる。    彼の死後は 孫娘が保護管理をしていたが、 1994年に


やっと村の管理に移り、 現在は フランス政府により国の重要建造物に指定され、 修復も行われている。




2013年には 世界中から 観光客が15万人も訪れたと言うから 

もう押しも押されぬ 立派な文化財になったと言えるのではないでしょうか ・・

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                                   (  2階のテラス )





10.     彼は 最初の妻には愛想を尽かされ離婚、 しかし再婚した妻は彼を理解し、終生彼を支えたという



彼の一輪手押し車が残されている。 足場の様子を見ても ” まさしくアナログな建築法 ” そのものですね!

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11.    ところで 私は、 彼は イマジネーション豊かな造形作家であるばかりでなく

ある意味人生哲学をモノにした プリミティヴな思想家だったような気もする ・・・



建物のあらゆる場所に 彼は びっしりいろいろな言葉を書き残している。  例えば 



” 自然は友であり、時として理解し難い敵でもある。 しかし、私は不平も言わず 自然に付いてゆく ”


” 人生は 生まれ来る子供たちと 消えゆく老人たちの 葛藤の嵐が吹き荒れる海のようなものだ  ”


” 肝に銘じよ、望むこと それが 出来る、の始まり ”  ”  神は 自ら助くる者を助く  ”

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                                          (  2階のテラス  )





12.     実は 私は最近、バルセロナの 「 サグラダファミリア 」を訪れた。 



その時真っ先にひらめいたのが この 「 シュヴァルの理想宮 」。  サグラダファミリアの外観の 

とても教会とは思えない奇抜な造形は 昔のままだったが、  新たに 最近完成した聖堂の内側は 

すっかり現代アート風にまとめられ、 ” ガウディはどこに行った!? ” という感じがしました ・・ 

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                                            (  完成当時  )




ガウディが シュヴァルと違う点は、 規模が全く違うのは当然として、 あふれ出るイマジネーションを 

一旦 科学的数式や建築理論に置き換えて、 実際の建築でも 他人の手と機械の手にゆだねざるを得ない、

という点だろう




ガウディは 許されるなら シュヴァルのように 本当は全てを自分だけで作りたかったのではないだろうか

実際そんなことは有り得ないことではあるけれど ・・  




                                                              




ここまで 淡々と報告させていただいたが  実は 「 シュヴァルの理想宮 」に 私はものすごく感動した ! 



歓びが胸一杯に満ち、 多くのインスピレーションを授かって帰って来た 。  






同じく あそこを訪れた ある人の感想を引用させてもらおう

” 私は 好奇心で中に入ったが 出た時は恋に落ちていた !  On entre curieux, on sort amoureux ”

 

2014年8月15日 (金)

「ル・ピュイ」は巡礼路の起点・溶岩峰のてっぺんに礼拝堂!

フランス中南部、リヨンの南西130km辺りに 「 ル・ピュイ アン ヴレ Le Puy En Velay 」がある

その町の特異な景観は 一度目にした 誰しもの脳裏に 忘れ難い印象を残すに違いありません








01.   山道を進むと、 ドンジョンと城壁がぐるりと取り囲む玄武岩の台地が現れた。 まるで舞台装置のようだ!  


これは 「 ル・ピュイ 」の北西5kmにある 「 ポリニャック城 Chateau de Polignac 」 

ボルヌ川の浸食で削り取られた台地が  周囲の平野より100mも高く すっくと突き出ている

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02.     そのあと 「 ル・ピュイ 」に着き  高台から見渡すと   

てっぺんに礼拝堂や像を頂く岩山が 台地のあちこちから ニョキニョキと生え出ている



まず、 向かって左側の 「 コルネイユ岩山 Rocher Corneille 」 に登ることにした

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03.     岩山の頂上には 「 ノートルダム・ド・フランシス像 」 が建っている。 高さ16mの

この赤い像は、19世紀中頃 クリミア戦争の戦利品として手に入れた213基の大砲を 溶かして作ったのだそうだ

道理でちょっと新しく、 ちょっと奇抜な造りでした ~ 



像の内部を 螺旋階段で登ると 一面の
落書きが ~ !    観光地の宿命みたいなものでしょうか・・ 

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04.     さて、 フランスにも火山があることを知ってる人は 数少ないかも知れないが、 

ル・ピュイを含むオーベルニュ地方は 火山のデパート、 色々な時代の火山が揃っており

独特な観光地巡りを楽しめます・・ 


このあたりにも火道が通っており、 かつての火山活動が そそり立つ尖峰や陥没盆地やらを生み出したのです




赤い像の小窓から見えるのが 「 ノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame 」

創建は430年で、かなりの歴史を誇っている。    次はこの大聖堂を訪ねます

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05.    この大聖堂、 実は スペインの ” サンチャゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼路 ” の

出発点として 今日でも多くの巡礼者を集めている。  彼らは 聖堂正面のポルタイユから始まる大階段を降り 


門前町を通って コンポステーラへの歩みを始めるのです

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06.     ル・ピュイは 司教座所在都市として 11世紀には既に繁栄していましたが、 大挙して

やって来る巡礼者がもたらす莫大な税収などを巡り 近隣諸侯との争いが絶えず、 この大聖堂を要塞化せざるを得なくなる



聖堂界隈には 石垣がめぐらされ、 教会・回廊・居住部などの建物の窓には鉄枠が付き、 出入り口は細く狭く、 

聖堂を頂く玄武岩の小山全体が 厳めしい石の砦となった所以です

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07.     大聖堂を頂点に 町のあらゆる個所が急峻な坂道になっているので、 観光は一苦労でした ! 



でも、学生さんたちにとっては 甘酸っぱい青春のシーンは 常に 坂道と共に記憶されることになるのでしょうね ・・

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08.     ノートルダム大聖堂の「 黒マリア 」、 抱かれている幼子キリストの首が衣から出ている姿が印象的。   

聖祭などで 違う色の聖衣をまとうのですが、 聖衣の下 幼子をどのように抱いているか、と 裸像が気になります!



サンチャゴ・デ・コンポステーラの守護神、「 聖ヤコブ 」 も 出発する巡礼者たちを見守っている。 

帽子のホタテ印しで ヤコブだということがわかりますよ 

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09.   最後が 「 サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂 Chapelle St-Michel d’Aiguilhe 」

礼拝堂を頂く 高さ82mのこの溶岩峰の姿は まさに奇景、 ” ル・ピュイの顔 ” と言える風景です




268段の石段をよじ登って 礼拝堂に到着。   創建は969年、   生活が不便で素朴だったかつての時代、  

礼拝堂を作る石を運び上げた時も ここで祈りを捧げた時も 幾多の困難が待ち受けていたことでしょう ・・

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10.    この礼拝堂は 1、034もあるフランスの文化遺産の中でも 19世紀末 最初の選考リストに載せられた

と言うことですから、 その人気の程と重要度がわかります



礼拝堂入口のアーチは エキゾチックな ビザンチン様式のアラベスク模様とモザイク石で彩られている

内部は素朴なロマネスク様式で、 天井などの壁画は薄れてはいるけれど 古びた色合いが魅力的でした

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11.    登るにも降りるにも かなりの勾配で 足を踏み外したら大変なことになりそうです !

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12.    さて ル・ピュイは 巡礼の人々の祈りを受け入れる厳粛な町ではあるけれど  町は普通に明るい。 



’ 聖母の被昇天祭 ’ ’ 鳥撃ち競技会の仮装フェスティバル ’ など 人々の熱気が爆発する機会も多々あると言う

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覚悟を決めた立派な巡礼者でなくとも、 私のように 物見胡散で出かけても 

十分に感動を味わえること間違いなしでしょう!

2014年8月 8日 (金)

「エーグ・モルト」海面がピンク色! そして可愛い子供たち

南仏プロヴァンス地方 地中海沿いに ” カマルグ Camargue ” と呼ばれる湿地帯がある

” プロヴァンス平野の父 ” と呼ばれるローヌ川が 土砂や泥土を押し流し、 56、000haという

塩分を含む 広大なデルタ地帯を形作ったのです








01.    アルルの南西30数km、そのカマルグの一角に 「 エーグ・モルト Aigues Mortes 」がある



城壁に囲まれた この四角い中世の町は 当時 海岸線まで3km、 

運河を通って 多くの船団が十字軍遠征に出発した 華やかなる港でもありました 
  


13C フランス聖王ルイの時代、 フランスは地中海沿いには一つも領土を持っておらず

商業上も 十字軍の派遣にも基地が必要であったため、  

国王は 沼地の中で 殆ど島になっていた小修道院の土地を
獲得し、 

その村に特権を与え 小城塞として発展させたのです

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02.    この四角い城塞は 13C末フィリップ美貌王の時代に造られ、 城壁には 防御のため 

20もの櫓が設けられた。  14Cには 15、000人の住民が この狭い空間にひしめいたと言う
  




ところで、海面が何やらピンク色に染まっています !

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(   空撮は 観光課のホームページから   )





03.     遠くに見える白い山は ’ 塩の山 ’ 。  エーグ・モルトの塩は LaBaleine という銘柄で

各地に出回っている。 そして、海面を一面ピンクに染めているもの その正体は 実は 塩分に適応した小エビなのです !



カマルグに住むフラミンゴが このエビを食べるから 体が赤く染まるのだとか ・・

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04.     さて、 ガルデット門 Porte de la Gardette から町に入ると

夕方、観光客と入れ替わるように 地元の人たちが 三々五々 繰り出している

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05.    聖王ルイの銅像がある 「 サン・ルイ広場 」は 観光客の記念撮影が終わると、

やんちゃな子供たちの遊び場となる。     レストランがぐるりと この広場を取り囲んでいるが、


美味い店を引き当てるには 一種の勘と聞き込みが勝負となる

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06.     地元のおばあ達が カフェにたむろしている。  ママが朝から仕事だということで 

孫の世話を任されているこのグランマ、 ’ 目に入れても痛くない ’ とは 世界共通の感情のようだ

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07.     彼女は上の赤ちゃんのお姉ちゃん、 私は後にデッサンでもしてみたいと 10カット程写真を

撮らせてもらった。      子供たちと仲良くなるには 一緒に歌を歌えばOKです !

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08.     日本ではこの夏 白が流行だというが、 この店は 海辺の町らしく 白が永遠のスタンダード !


「 ブラン デュ ニル、 ナイル綿の白 」  という屋号です ・・

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09.     ” おっぱいのようなヌガー ” と言うべきか  ” ヌガーのようなおっぱい ” と言うべきか !?

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10.     この町の小路には 下町情緒が溢れている。 未だ 濃密な人間関係が存在しているようだ


さて夕食は、先程の広場の片隅で パエリャを ’ 露天作り ’ していたレストランを見つけた

                           



最近は スペインでも これだ!と言う 美味しいパエリャに なかなかお目にかかっていない。 レストランでは

20分程お時間がかかります、と確認してくるので ちゃんと手作りはしているのだと思うが、 恐らく 厨房では

パエリャを手早く仕上げる 何らかの近代的な調理施設があるに違いないと想像している。  でないと

大勢のお客に一度に対応出来ないからだ。  大きなエビや魚介で飾れば 即 立派なパエリャに見えてしまうし・・

                         



ここのは 水分が適度に飛んで 美味しい旨みと香ばしさが 口いっぱいに広がり、

生涯でも 忘れ難いパエリャとなった !

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11.    エーグ・モルトの ピンクの海の色に染められた? アイスクリーム屋さんの店先


” まず パパが舐めてからね、、、 ”    子供たちの可愛い表情がなんとも言えません

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12.    さて 現在のエーグ・モルトは この四角い中世の町の外側に発展している



城塞脇の運河 Chenal Maritime には 旋回橋が架かっていて、   朝の通勤時間帯

人々は 足早に橋を渡って行く

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ところで 14C以来、エーグ・モルトの停泊区と水路が ローヌ川の堆積により 徐々に埋まり、 

海岸線も大きく後退し 商業・軍事基地としての役割を果たせなくなった頃、 マルセイユがフランス領となり 

港の役割がそちらへ移ると、  エーグ・モルトは 完全にとどめを刺され 



その名の通り ” 死んだ水 ” となる。    そして、 歴史の外へ忘れ去られた ・・・




因みに 港の役割がなくなったあと、 この町は 長く牢獄として使われたと言う事です

西洋では 隔絶した場所は 多くが 修道院か牢獄になったんですね ・・・






ともあれ エーグ・モルトも 実に面白い町で、   わざわざ足を伸ばす価値があったと言うものでした



そして、城塞の狭い空間で出会った子供たち、 可愛いかったです ~ !

2014年8月 1日 (金)

「ゴッホが入院したアルルの病院」と「ゴッホのお菊さん」

ゴッホが 南フランスのアルルで生活したのは 1888年2月から1889年5月まで、

短い滞在でしたが 今日のアルルには 大きな財産を残したと言えそうです




生涯に1000点以上の作品を残したゴッホでしたが 

アルルでは ひまわりや糸杉ばかりでなく 彼が触れあった人物の絵も描いています






01.    「 郵便夫 ジョゼフ・ルーラン Portrait de Joseph Roulin assis 」

ルーラン夫婦については それぞれをモデルとして 複数の絵を描いていますが



ゴッホは ジョゼフの風貌がソクラテスのようで気に入ったらしく、ジョゼフの方も 後に 入院したゴッホを見舞っている

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02.    「 ラ・ムスメ La Mousme 」  ピエール・ロティの小説「 お菊さん 」から


発想したタイトルだが、  ’ むすめ ’ という日本語に ゴッホは フランス語に翻訳できない 可愛らしさ 

優しい快活さなどのニュアンスを感じ取ったらしい

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03.     当時の「 アルル市立病院 」 を そっくり復元したもので、 今は ゴッホのメモリアル、

「 エスパス・ヴァン・ゴッホ Espace Van Gogh 」 と呼ばれている

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04.     1888年12月23日、 ゴッホは 例の 自らの耳たぶを切り落とす事件を起したあと

アルル市立病院に収容される。       12月30日の地方紙「 ル・フォロム・レピュブリカン 」は、



「 先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が 娼家1号に現れ、

ラシェルという女を呼び ” この品を大事に取っておいてくれ ” と言って自分の耳を渡し姿を消した 」と報じた

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05.     他方、ゴーギャンは ゴッホの弟テオに 来て欲しいと電報を打ってから パリに帰る。  


想像を越えるような事件の勃発に ホトホト嫌気が差したであろうが、  ゴーギャンは 友人として

やるべき最低限の義務を果たして アルルを去った ・・ 

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06.     「 アルルの病院の中庭 Jardin de l’ Hopital a Arles 」

ゴッホが入院していた当時の病院は 16世紀以来 Hotel-Dieu Saint-Espirit と呼ばれていた。



しかし 医療の近代化に伴い 診療機能が徐々に他に移され 1986年には この病院は完全に閉鎖され、 

ゴッホ絵画センターとして ゴッホの絵を参考に 当時の病院の姿が再現されたのは つい最近のことになります

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07.     ゴッホが アルル時代後半に住んだ 「 黄色い家 」 は 現在は跡形もないが、 



「 夜のカフェテラス Terrasse du cafe le soir 」 に描かれた 当のカフェ、

Cafe Van Gogh の方は これまた彼の絵そっくりに 1990年に再現されました

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08.    ゴッホの跳ね橋も 病院も カフェも 平たく言えば 観光客誘致のため再建されたとは思うが、


わずかな滞在期間だったにも拘らず ゴッホが来てくれたことで ’ゴッホの町’ という大きな価値を得たアルルが

そうしたメモリアルを再建するのは 市民にとっても意味あることに違いない

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09.     それに付けても 当時の新聞に 「 オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、

過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている 」 などと報じられたゴッホが



後年、世界中で知らない人がいないような 偉人画家として 再びアルルに富をもたらすことになるとは

いったい誰が想像しただろうか ・・  ゴッホゆかりの建物などが 保存されなかったのも当然でしょう !

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(  「 古代劇場 Theatre antique 」 紀元前1C   )






10.    さて その後 ゴッホは アルルの北東20kmにある サン・レミの精神病院に移される。



サン・レミへは プラタナスの並木道が延々と続く ・・     もともと フランスの田舎の風景は 

並木道と切り離せないが、    この長い並木道は とりわけ美しく、 心に響くものでした

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11.     さて 先ほどの小説 「 お菊さん Madame Chrysantheme 」を書いた

ピエール・ロティ Pierre Loti は、 1885年と1900年に 実際日本に来ている


小説は 長崎で3か月暮らした 海軍士官が うら若い日本人の娘と生活した模様を 日記風に書いたものだそうだ





っと、 ここで思い出されるのが 「 蝶々夫人 Madame Butterfly 」

実際 蝶々夫人は 「 お菊さん 」が 巷で大流行したのを踏まえて、 その10年後に作られたものだ




「 お菊さん マダム・クリザンテーム 」のオペラの一部を 私は FM放送で聞いたことがあるが

「 マダム・バタフライ 」 共々、 

一種のジャポニズムの流行が こうした作品を生み出したことは間違いないでしょう

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12.     ロティは 必ずしも日本を賛美だけしている訳でなく、 一部侮蔑の感情もあったらしいが


浮世絵などを通して日本の美に傾倒していたゴッホは、 小説「 お菊さん 」から 未だ見ぬ日本への憧れを

一層強くし、  油絵で 可愛いお菊さん ” ラ・ムスメ ” を描いてみようとしたと言う。




アルルの光や色は 日本の版画のように美しいと言ったゴッホが 本当に日本に来たらどう思ったかは別として、

日本人としては ゴッホにそんなに憧れられたことは  嬉しいような、、、 気恥ずかしいような、、、

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さて、 ツールーズ・ロートレックが ゴッホのポートレイトを描いている





南フランス風の光と色に染まったゴッホですが  

心の中に潜む病根と頑固さもちゃんと表現されていますね ・・

       
  

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