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2012年5月

2012年5月24日 (木)

セーヌ川 恋人たちの錠前と ブキニスト

                   

 

今回からは しばらく パリ散策に出かけます~

マロニエの花は終わっていましたが 6月のパリは 日が長く、

得した気分で  朝から晩まで 楽しめました~




                   

01.        パリの空の下、 セーヌは流る ・・・

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セーヌの中州 シテ島そばに 1803年、初めて ”鉄で作られた橋”が ある
 


ナポレオン時代の人々が 直接ルーヴル宮に渡れるように作った 歩行者専用の橋で、

当時は 橋の中央に熱帯植物用温室があり  通行料も取られたという

                    






02.          それが ポンデザール橋 Pont des Arts  ↓

橋の上で踊ったり 語らったり、 朝市を開いたり、 時には闘ったり ・・・

橋は 昔から 市民生活の縮図みたいなものでした。


現在でも その使い道を 人々は十分心得ているようですね

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03.     もう一つの鋼鉄の橋  アルシュヴェシェ橋 Pont de Archeveche

今や名物となった ” 恋人たちの錠前 ”   重量で 橋が壊れんばかり ?!

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04.     こんなことをするのは 世界的に ブームのようですね。     

 
錠前にカギを掛け、そのカギをセーヌに投げ込むと 恋が成就するとか ・・


”  お嬢さん 無駄な努力かも ~   ナンチャッテ ^&^  ”

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05.          鈴なり ! 

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06.      セーヌ河畔の ブキニスト(古本屋) Bouquiniste

100年も前から続く この最もパリらしい風景、 世界遺産に登録されてます!

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            ( 店仕舞いすると 写真上右端のような長方形の箱になる仕組み )





                  




07.      ところで、  誰でも勝手に ブキニストになれる訳ではなく

パリ市の審査があって 現在は250人ほどが 許可を受けている。


しかも それぞれ 得意分野を持つ 誇り高き専門家だと言う。

このムッシュ、如何にも 気難しそうでしょう・・・ 

ここでは 文学 ・ 歴史的な 本類を扱っていました。

私は  市民生活の ” 風刺版画 ” を一枚買い求めました

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08.      ブキニストの緑色の箱は パリ市の所有物で

前のジャック・シラク大統領の時代に、その大きさが統一されたそうだ。

幅200cmX奥行75cmで 高さはセーヌ側が60cm、道路側が35cm

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09.    こちらのマダムの店には 植物画や ファッション画が満載

50枚ぐらいの版画が 一つづつ束になって 天井一杯に吊るされている。

許可をもらって 片っ端からめくって行く・・・


「 それはあとの時代に印刷したものだから、こっちの 本物の版画がいいわよ~ 」

マダムのアドバイスをもらい 1870年代の貴族のファッション画を4~5枚購入した。

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                                   ( 奥は ノートルダム大聖堂 )






10.          女心がくすぐられました~~   

ウエストをあと半分ぐらい減らさないと  こんなドレス着られましぇんけど・・・!

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11.     パリは 有名で美しい街だけど、 奥が深く 本当は取っ付きづらい 地味な街だ。

イタリアの諸都市のように 華やかで 見るだけで満足できる訳ではない。

暮らしてみて初めて パリジャンの生活、文化の真髄に触れられる 気難しい街かも知れない。
 

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  パリ散策  つづきます








                                       

2012年5月17日 (木)

「ナンシーノワール」 ナンシーは黒かった!




                                                        




01.      アールヌヴォーが生まれた町 ナンシー Nancyを歩いていると

10分もしないうちに 気付きました。

何かヘン、 みんな黒い服を着ている・・・

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02.    季節は秋、 色目を失っていく ヨーロッパの秋

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03.     なんで人間まで わざわざ 暗い色をまとうのだろう ?!

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04.    ナンシーの華、世界遺産、スタニスラス広場 Pl.Stanislasに ある

「 ネプチューンの門 Porte du Neptune 」

ロレーヌ公国時代の ロココの傑作で、

黒と金の装飾的な鉄の門に囲まれた この広場は豪華絢爛だ 
 


ナンシーの人々にとって 「 黒 」 は アイデンティティーの色なんでしょか

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05.       ちょうど 幼稚園のお迎えの時間でした。

幸せいっぱいの若夫婦も、 子供たちもが 「黒い服」

小さい時から 黒の刷り込みを受けて、 きっと違和感なく育つのでしょう。

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06.       マクドナルド前

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07.    行きずりの知り合い 4人が みんな「黒」 で   
売り物の服も「黒」

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08.       当然 ショーウインドウの主役も 「黒」 ・・・

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09.        ペピニエール公園 Parc de la Pepiniere

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10.       カフェやレストランでも ほら この通り!

サングラスを掛ければ より完璧な ”ナンシー人” になれそうです。

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11.      ストライキ中のワン公も、 東屋も、 「黒仕立て」

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なンシーて これ程 ナンシー人は 黒が好きなのか ・・・

後日 ナンシーの観光課に問い合わせてみたが、

「 わかりません!」 と 素っ気ないお返事だった。

何人かの パリのマダムにも聞いてみた・・    「 黒はシックだからよ 」 即答だ!

 

 

                                




” シック好き ” 、、、

なれば フランス中が 黒ずくめになるはずだが
 

これほど ” 黒い町 ” には お目にかかったことがない。



多分、19世紀末のアールヌーヴォーと その1世紀前の貴族たちのロココ芸術が、

人々の美意識とプライドを 育んで来たのかもしれない。

その上、第二次世界大戦に際して ロレーヌ地方が蒙った 様々な時代の暗い影が

無意識のうちに 人々の趣向に影響を及ぼして来たかもしれない。


                                




謎がナゾとして残る・・・

それが また 旅の醍醐味でしょうか~ !    ^&^

2012年5月10日 (木)

足早に駆け抜けた「アールヌーボー」 ナンシー派美術館

                                               

19世紀末 ベルギー、フランス、イギリス、ドイツ、オーストリア、アメリカなどで

大きく花開いた芸術様式 「アールヌーボー Art Nouveau (新しい芸術)」は

実は、

約25年という短い期間に 燃え盛る炎となって 世界を駆け巡り、

 
あっけなく消滅したムーブメントでした




しかし、その豊潤な魅力は 遍く 人々の心を潤し 次の趨勢へと引き継がれたのです

特に 日本人には ファンが多いですよね ・・・



                                             



01. その発祥地の一つが フランス北東部にある ナンシー Nancy

その 「ナンシー派」の中心人物こそ

ネオ・ロココ様式家具職人の子にして ガラスの魔術師 ”エミール・ガレ Emile Galle” 

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02. ここ「ナンシー派美術館 Musee de l'Ecole de Nancy」の 館内には 

ガラス器 家具 絵画 ステンドガラスなど ナンシー派の作品が 所狭しと ひしめいております~

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03. さて 産業革命後、 一気に工業化が進んだ結果

 
世の中には やや無味乾燥な、時には粗悪な 日用品が出回ることになりました
   



経済的には豊かになりつつあった 各国の中産階級が 日常に芸術性を呼び戻し、 

新たな美を創造しようと目論んだのも 当然の成り行きだったかもしれません

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( 絵画も展示されています )







04. 「ナンシー派美術館」の中でも この食堂は 見もの!


テーブル 椅子 食器棚 天井と壁面 照明 室内の全てに

流れるような曲線が行き渡り 見事な造形美を醸し出しています

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05. 「アールヌーボー」の特色を 端的に言ってみると(一部 例外はありますが)、

”自然界の曲線的フォルムを導入すること” と

 
”昆虫や魚、草木や花などをモチーフとして採り入れる”という 二点



人間らしい感性をほんの少しでも持ち合わせていれば 容易に理解できる芸術です~

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06.  紫檀・黒檀などの寄木細工や螺鈿などで装飾された ガレ作のベッド「曙と黄昏」


  
今にも 蝶の鱗粉が舞いそうな

”昼と夜 曙と黄昏 生と死を想起させる”怪しげなデザイン・・

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07.  マホガニーに寄木細工が施された マジョレル作の「グランドピアノ」
  

白鳥の死がテーマで 鍵盤蓋には 松かさ模様が彫られています

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さて、各地のアールヌーボー様式に ジャポニズムが巧みに消化吸収されていたことは

周知の事実ですが、 ここナンシーでは 実際に一人の日本人が 直接関与していました



                                                






08. それが 地質学者として ナンシーの水利森林学校に留学していた「高島得三」

彼は 雅号を「北海」といい、日本画も能くしておりました


たまたま知り合ったガレは「北海」を通じて 日本人の自然観、アニミズムを深く吸収し、

いわゆる ガレの個性あふれる「物いうガラス」「物いう家具」の水源と成したのです

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( 北海の「水墨画」や日本の「文様集」も展示されていました )






09. 菊の花を図案化した「ガレの小卓子(左側)」と 

池畔で水浴する裸婦と 蓮の花を図案化した「マジョレルの飾り棚(右側)」

なんとも 日本的な趣きではありませんか~!

「手(下段)」は 海草が巻き付いる不気味なオブジェ

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10. さて、「アールヌーボー」が足早に 駆け抜けた理由、 その一つは

草木の茎や枝が 空(くう)をまさぐるように増殖するデザイン、


その神秘的な曲線のうねりが 病的且つグロテスクな 過度の装飾の領域にまで及ぶのに 

時間はかかりませんでした



”装飾は不用、罪悪であるとすら見なされる時代”が 到来したのです

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( 美術館の広い庭にある 唐傘のような屋根を持つ水族館 )








11. さらに もう一つの理由は

もともと 「アールヌーボー」は 工業製品に対峙する 手作りの芸術品でしたから、

富裕なパトロンの後ろ盾を必要とする 高価なシロモノでした



高くて神秘的、’手が届かないからこそ魅力的’ではあったのですが、

近代化が急速に進み、実利を求める社会構造には 

その魅力の’神通力’が 通用しなくなってしまったのです 

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( 美術館の庭にある マジョレルの銅像 と 日本語での注意書き )




                     






日本人の ”アールヌーボー好き”は 

デザインの根底に 日本文化が応用されていたことを思えば 容易に納得の行く話です

また、日本の バブル時代には 
 
お金持ちになったばかりの人々や 一部の芸能人が わが身を高めるのに、

競ってアールヌーボー作品を持ちたがったような気がします


( 西欧の当時の人々にも同じような発想が 少しはあったかもしれませんね )



                         





美術史的には ブームは去ったとは言え、怪しげで、罪深げ、魅力溢れる「アールヌーボー」

世界の街角の装飾や メトロの入り口、本の装丁やポスターを通して 
今日でも いつでも出会えますし

私たちの芸術的嗜好も いつのまにか あの曲線美にすっかり馴染んでしまい


 

今や 古今東西の区分とか 一時の流行を越えた 

” 芸術のスタンダード ” と なったことは確かなようですね

                        

2012年5月 3日 (木)

シュヴァイツァーはドイツ人?フランス人? 好物はゴーフル!



昔は 偉人と言えば ”密林の聖者・シュヴァイツァー” の名が
挙がったものですが、    野口英世にも 大きな影響を与えたこの人、

最近の 日本での ’知名度’はどんなものでしょう・・





                                               

01. アルベルト・シュヴァイツァー Albert Schweitzerは 
フランスの 神学者・哲学者・医者・オルガニスト・バッハ研究者として有名 ・・

    

彼が生まれ育った この町、「 ケゼルスベール Kaysersberg 」 は

フランス北東部 アルザス地方の美しい花の町です

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02. でも 確か シュヴァイツァーはドイツ人でしたよね~

そう、彼自身は 生涯ドイツ人を自認していました   が、
フランス人も 彼を シュヴェルツェールと呼び親しんでいます


 

つまりは、長い間 独仏で獲り合いをして来た’アルザス地方の歴史’が

そんな曖昧さを生んでいるのです

ドイツ語では ここはカイゼルスベルクと言い 
皇帝(カイザー)の町 という意味合いを持っています

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03.  シュヴァイツァーは1875年 牧師の家庭に生まれ、

5歳で父親からピアノを学び、   

子供時代から 地域の教会でオルガンを弾いていましたが

18歳で、ストラスブール大学で 神学・哲学を修めたあとも

壮麗なストラスブール大聖堂での バッハ弾きのオルガンの名手として 
名を馳せていました

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04. このように 彼は恵まれた環境で育ちましたが

斟酌なく重い荷を引かされる牛馬や  鞭打たれながら びっこを引きつつ
屠殺場へ連れてゆかれる馬などを 通りで目にするにつけ 心を痛め、

夕べの祈りで 人間のためにだけ祈ることを 良しとせず、

「神様 生きとし 生けるもの全てを守りたまえ」と祈るような子供でした

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( シュヴァイツァー博物館 )



                   






05. また 幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をした時、

「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば

負けやしないんだ!」という叫びを聞き シュヴァイツァーは激く動揺する

「同じ人間なのに、なぜ自分だけが恵まれた生活をしているのか」と・・・

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06. このように感受性豊かなシュヴァイツァーが 

30歳で医学の門をくぐった後、

 

1913年 38歳にて  大学教授、オルガン奏者、著述家など

 
あらゆる地位を捨て、 すべての財産を注ぎ込み、

 
ヘレーネ夫人と アフリカに旅立つことになっのも


当然の成り行きだったかも知れません

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( シュヴァイツァーの生家 )




07. 当時アフリカには 
マラリア フィラリア フランベシァ 昏睡病 象皮病などが蔓延し、

動物による外傷や 祈祷師や占い師の習慣とも闘わねばなりませんでした

医者としての活動は 慈悲や慈善という生易しいものではなく

現地の風習と生活を踏まえつつ 科学的療法を少しづつ浸透させてゆく
実に困難な作業でした

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08. 加えて 1914年には 第一次世界大戦が勃発し、

 
ドイツ国籍であった夫妻は フランス領ガボンのガンバレネで 

敵性国人として 捕虜になり、 その後 ヨーロッパへ 帰還させられる
 


残してきたガボンの病院の運営では 莫大な借金を背負うことになる

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( シュヴァイツァーも遊んだヴァイス川、 今は釣りのメッカ 
「五月のはえクラブ」は ”釣ったらリリースしましょう”と呼びかけてます )




09.  しかし シュヴァイツァーの 講演やパイプオルガンの演奏活動が
思わぬ好評を博し、 2~3年で 借金を返済、

黒人救済の新たな資金も作り、 彼は再び10年ぶりにアフリカに戻る

しかし、荒れ果てた ランバレネの自分の病院と 
赤痢や飢餓 前にも増して悲惨な人々の状態を 目のあたりにして


さらに本格的な 「シュヴァイツァー病院」を 建設し 
一層の難事業に取り組むことになりました

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( オリジナリティ溢れる 違反行為ですね! )

                      






10. その後、1953年には フランス人としてノーベル平和賞を受賞、
 

彼はその資金で らい病の患者を収容する村を建設する


 
86歳で亡くなったのが1961年ですから 歴史上の伝説の人というよりは 

現代の私達の近くにいた人だったのです!

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( 魔女とヴァンパイヤー?! )


11. 因みに、シュヴァイツァーの好物は 風月堂のお菓子 ”ゴーフル”

彼の片腕として働いた 日本人医師が お土産として持ち帰った時、

ことのほか 気に入ったのが始まりだそうですが

もともと フランス人が 日本に教えたゴーフルを もっと美味しく作り上げた?!

風月堂の技が シュヴァイツァーに 感動を与えたのは

面白い逸話です~

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( お土産のリトグラフ )


さて、余談ながら  フランスの哲学者 ジャンポール・サルトルや
ルノーの取締役 ルイ・シュヴァイツァーは 彼の親戚筋にあたる


アルベルト・シュヴァイツァー自身は ドイツ人の血を自認していましたが

その血は その後 確実にフランスで根を張り 

きれいな花を咲かせたと言うことになりますね






                      





しかし、 本当に誇りに思っているのは ドイツ人でもフランス人でもなく、
「アルザス人」に違いありません 

”シュヴァイツァーはアルザス人だ! ”

”シュヴァイツァーは アルザスの英雄だ! ”って ・・・

 

ことほど左様に 今日でも アルザスは特別で 独自な存在なのです

                     



さらに 蛇足ですが、 日本で、「ゴーフル」 という名前のレストランが

風月堂の訴えで 屋号を変更することになったという話がありました



「ゴーフル gaufre」 は フランス語では お菓子の”普通名詞”ですが、

日本では 風月堂の「ゴーフル」を 意味する”固有名詞”となる訳です

レストラン側にも 風月堂側にも それぞれ言い分があったでしょう


とりあえず、 シュヴァイツァーは フランスの 「普通名詞のゴーフル」でなく

風月堂の 「固有名詞のゴーフル」が 気に入ったということでした・・・

                       





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