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2012年2月

2012年2月29日 (水)

「プロヴァンの中世祭」 本日のイケメンは?

 
「 プロヴァンの中世祭 」 
Les Medievales de Provins

 

前回に引き続き その2です

                                                                     

 

14. パリの東90km、プロヴァンProvinsは、
小高い丘の上、城壁に囲まれた小さな町 

 

事前に 特に詳しくは 調べずにやって来た私たち、

 

車で なんとか町中に潜入しようと ルートを探しましたが
悉く、警察車両のバリケードに 行く手を遮られました! 

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15. 結局、数キロ先の 隣町の臨時駐車場まで誘導され、

改めてそこから バスでピストン輸送されたのです 

 

多分 日頃は 眠ったような町が、果てしない駐車場の海と化し、 

緑の丘には 野営して祭りを楽しもうという人々の
色彩りどりのテントが 一面に咲いておりました 

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(直火でクレープを焼く)






16. 哀れな豚くん、 回転用の心棒に 口からお尻まで貫かれて 

” トンだ迷惑 ! ” 

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17. オオカミ狩り専用の犬、アイルランド原産のグレーハウンド

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18. この町のシンボル、「 セザール塔 Tour Sesar 」 12C

ドンジョン (Donjon 天守閣)から 町が一望できる

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19. この町の地下には 石切り場、倉庫や作業場として使われた

地下道が 縦横に張り巡らされています
 

( ガイドツアーでないと入れません )

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20. 「演劇」     ベンチは麦わら製、

登場人物も コーラス隊も 観客も 中世びと・・

 

筋書きは、 
ダンナと若い男、両方からお金を巻き上げようと算段する おかみさん、

 

狡猾で、滑稽な夫婦の会話なのに、 中世だからでしょうか、

言葉が  「丁寧語(vouvoyer)」でした!

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21. 城壁では 鷹匠のショー

地上では 黒マントの鳥男が 飛行準備!? 

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22. まぶしい晴天が にわかに暗転、 突風と大雨が・・   

そしてまた 何事もなかったように きらめく太陽・・ 

 

西洋絵画には こうした 天空の激変から

インスピレーションを得たものが多いですよね~

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23. 罪状はナニ?

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24. 罪の懺悔は ボクが 承ります~ 

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25. さて、 「本日のイケメン」は どの男性?

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26. ところで,  プロヴァンの城壁の中には ちゃんとしたホテルは1軒しかない

当然 予約は 半年前から埋まってしまいます ・・・  

 

町を出れば 帰り道のどこかで ホテルは見つかるから、大丈夫 と 
高をくくっておりました

 

ところが、プロヴァンから10km、、20km、、離れても

街道筋のホテルやモーテル、どこもかしこも ”満室お断り” 

 

改めて、「プロヴァン中世祭」の人気ぶりを 思い知らされました!

26

 

結局 夜遅く パリに かなり近づいてから
 

8階建ての大規模モーテルで 空室を やっと見つけることが出来ました     

ホッ!

 

でも、レストランは閉店時刻を過ぎていて、、、 危うくピザで命拾い!

 

                                                                    


当てずっぽうで見つけたモーテルでしたが、

翌朝 広いロビーに 興奮気味の子供たちが 大勢群れていたことで 
わかりました     そこは、なんと

「パリ・ディズニーランド」目当ての 新しいモーテルだったのです!

 

昨日 ”中世時代にタイムスリップ ”して来たばかりなのに

今度は 現代の夢の国 ”ディズニーランド” かいな~

                                                                          

 

話は 少しそれますが、

アメリカ文化の代表格、「 DisneyLand 」を ヨーロッパで 

初めて受け入れたのが フランス、パリ

 

フランス人は保守的だ、とか

フランス人は 自国から出たがらない、とか
 

フランス人はアメリカを軽蔑している、とか

 

英語がしゃべれない、とか

英語をわかっていても プライドがあって使わない、とか・・・

 

そういう 昔からの ” ありきたりな決め付け ” は 

最近は   ” 今や昔 ”となりつつあります~

 

中世祭とディズニーランド、 たまたま 偶然の比較ではありますが 

古いものも大好き、 新しいものにも ものすごく貪欲、

フランスの二面性に 思いを馳せた朝となりました・・・!

                                 

 

2012年2月22日 (水)

「プロヴァンの中世祭」 本日の美女は?




「 プロヴァンの中世祭 」 
Les Medievales de Provins

 

パリの東 90kmに 世界遺産として登録されている
プロヴァン Provins という中世の町がある

 

中世の生活や祭りを 丸ごと再現する 「プロヴァンの中世祭」、

 

ものは試し、「見る阿呆」となってまいりました~

                               

 

 

01. この町は 11世紀から 13世紀にかけて

シャンパーニュ地方の 商業の中心地でした

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02. 22の塔が建ち並ぶ 城壁の外側でも、 城壁の内側でも、

人々の熱気が 燃えたぎってます・・・!

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03. 城門から 早速 足長美女が登場!

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04. 2000人以上の人々が 中世の衣装で参加

 

因みに 中世の人になり切っていれば 入場料は無料、

「見る阿呆」は 有料という仕組みです

 

私も ”ボンデージ衣装”でも持参すればよかった! ナンチャッテ 

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05. はい、 なり切ってま~す

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06. 毎年6月に開かれる フランスでも有名な この祭り、

2日間で 10万人が押し寄せる

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07. プロヴァンでは 
この大祭に限らず、年中 なんらかのイベントがある

 

一時は 歴史の闇に 埋もれてしまったプロヴァンですが、

逆に、今では ”時代遅れ”、それこそが武器、

 

パリから近いこともあり フランス人にとって

1度は訪れてみたい ワンダーランドとなっています

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08. 私、 足首は 細いんデス!

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09. 彼らが ↓ ”チャンバラしながら” 丘を登り下りする様子を
連写的に撮ってあげたところ、 

想像以上の出来に ”凄い!”って ものすごく 感謝されました

実は 手渡された彼のカメラは ちょっと古めの ”パナソニック”
 私は手慣れていたのです

自分のカメラが 日本製だなんて ちっとも知らなかった、と

驚いていました・・      そういうものなんですよね~

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( ポージングは 私の振り付け! )

 

10. 私、 上の男の子たち↑を 撮るのに 熱中していたら、

コイツらの一人に 背後から 抱きつかれました~~

 

一緒に グルグルと体を回わされて、 ああ恥ずかしい・・ 

みんなに笑われましたヨ

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11. ワン公たちも 負けていません 

左上 こんな毛並み 見たことありません アナタ何犬?

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右下 フランスにも こんなおどおどしたカワユイ犬が いるんダ~

 「あなた フランス人じゃあないデショ !?」


                                




12. さて 「本日の美女」は どの女性?

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13. 人ごみの中でも 輝いてマス!

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次回 「 プロヴァンの中世祭 その2 」に つづきます

                                

(今回は 少々 写真の枚数が多いですが、 容量を落としてあります )

2012年2月15日 (水)

黒田清輝と浅井忠 130年前の仏留学ってどんな感じ

パリの南東60km、「 グレシュルロワン Grez sur Loing 」は  ロワン川に面した 穏やかな小村です

 

                         

 

 




 

01.     パリ近郊の 魅力的な地域の中でも   昔から アメリカ、イギリス、北欧などの画家たちが 

この町に 芸術家のコロニーを作っていましたが、 

近くの 有名な フォンテンブローやバルビゾンになくて、 ここにあるものそれが この” 美しきロワン川 ”でした

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02.     切手にもなった「 湖畔 」という絵で有名な 黒田清輝(1866~1924)、           02_5  

 

彼は 1884年から9年間 フランスに留学しましたが、


そのうちの 2年間を過ごしたのが ここ 「 グレ 」 









03.     彼が渡仏したのが 若干18歳、 さすがに 遠く離れた異国から 日本へ

9年間に 相当な数の手紙を 書き送っていますが

 

薩摩藩士たる父親宛てには  お金の催促を含め ほぼ漢字で、

母親宛てには ほぼ平仮名で、 優しく生活の様子を伝えている

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驚くことに、グレには 「 黒田清輝通り Rue Kuroda 」がある 

知らないと 通り過ぎてしまいそうな 石畳の細い道です~

 

この小道を行き来する 黒田の心には 異国の生活を 努力で切り開いた満足感と 

切ない望郷の念が  いつも 渦巻いていたかも知れません・・・

                            





04.     当初  黒田は  川べりのホテルに滞在していましたが、

部屋代の他 食費やモデル代なども 相当かさんだため、  部屋を借りて自炊を始める


さらに、 フランス語に苦労する アメリカ人や英国人をしり目に 語学の達者な黒田は 

村じゅうに たくさんの知り合いを作り、 生活上の様々な便宜を 彼らから上手に引き出したという




   
海外で生活する上では 単なる語学力ばかりでなく そのような 総合的な 「人間力」というものが

必要なのかも知れません

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( グレでの傑作 「読書」 )

 

 

 

05.     「近代洋画の父 黒田清輝 ここに暮らす 」 彼が暮らした家の門には

こんなプレートが掲げられていました

 

グレでの 彼の住まいは 実は 母屋の隣にある ” 物置 ” で、 

寝室、台所、アトリエとして不便はなかったが、  トイレに大変不自由したという

 

原則、トイレは 近所に借りに行ったが、いつもいつもと言う訳にもいかない 

外にスケッチに出た時、藪や木陰でしゃがんで 用を足す

夜の暗闇の中も、雨や雪の時も 傘をさして場所を探す ・・・


 

こういう事が  まぎれもない 「 人間力 」というものかもしれません !

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06.     「 婦人図 ( 厨房 )」 「 編み物 」

黒田の借家の持ち主、 マリア ・ ビヨー Maria・Billaut 姉妹 をモデルとした傑作

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さて、 黒田清輝以降、 多くの日本人画家が グレに滞在しました 

岡田三郎助、児島虎次郎、安井曾太郎など 枚挙にいとまがない

                         


07.     中でも特筆すべきが 「 浅井忠 (1856~1907) 」でしょう 

東京美術学校の教授だった 44歳の浅井が フランスに渡ったのが1900年、パリ万博の年

 

彼は 若い頃 東京の美術学校で イタリア人画家フォンタネージに師事し

” 自然を師とすべし ” という理念のもと、   
日本の農村などに取材した

” 茶褐色をベースとした ” 滋味あふれる風景画を 描いていました

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( 浅井忠 「グレの教会」)

 

 

08.     ところが フランスから帰国した 黒田清輝が  東京美術学校西洋画科教授となり、

フランスで獲得した 明るい外光派の画風を披露すると、 若い画学生は 雪崩を打って 黒田になびいてしまう

 

日本の洋画界に 性急な交代が起こり、 浅井忠は 教授として 挫折の憂き目を見る

 

以後、黒田は「 新派 」 又は「 紫派 」  浅井は「 旧派 」 又は「 脂派(やに派) 」 と呼ばれ、  (注) 

何かにつけて 比較されることになったのです

08

( 「 グレの橋 」 )

 

 

09.    しかし、浅井にとっても 2年間の フランス留学は  大いなる刺激となったことは 間違いありません



 
とりわけ 半年余のグレでの制作の期間に
 明るく軽妙な記念碑的作品を 数多く生み出し
 

” 自らの芸術の絶頂 ”を 極めたのです



 

中でも 不朽の名作「 グレの洗濯場 」は ↓

  
深い緑の木立と赤い屋根、水面にこぼれては揺らめく 光の描写など、 大変魅力的な作品です

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10.      私自身も ” ロワン川沿いの この洗濯場を見るために ”
 

わざわざ グレシュルロワンにやって来た訳ですが

 

ナマの風景は 浅井の絵よりは さすがに 明るく 現代的で 清々しい洗濯場で、

身も心も すっかり グレの緑色に染まって 大変幸せでした~ !  

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11.     帰国後 浅井忠は  東京ではなく ただちに一家揃って京都に移住する

 

そして「 関西美術院の院長」 として 関西の洋画壇の発展に 全身全霊を注ぎ、 

以後関西からも 多くの優れた洋画家を輩出する

 

現在でも 弟子たちが献じた 京都南禅寺内の彼の墓には いつも明るい陽光が降り注いでいるという

11





「 黒田清輝 」と比べて 「 浅井忠 」 の知名度は イマイチかもしれませんが、

日本画壇での  浅井の実績は 決して 見逃すことは出来ません

 

今日では 「 紫派 」 も 「 脂派 」も なく、 ” 黒田と浅井の等分の功績 ” が 

欧米に肩を並べる 素晴らしき 日本美術の礎となったのは 間違いのないことでしょう 



                           




(注)  「 紫派 」 とは 影の部分を 紫や青で描いたことを  
脂派の視点から 正岡子規が 揶揄したことによる

 

「 脂(やに)派 」 とは 褐色の色調の印象から そう呼ばれ、 脂派の絵は色彩感覚に乏しいものの、

溶剤に強く絵肌が美しく  耐久性に優れている


 

紫派の絵は 絵画を形成する技法より、画家の心持の表現の方に 重点が置かれ、 

結果、 傷み易く 保存に問題が起きがちだともいう

 

              

どちらの側にも 基本的技術の問題がありながら、 それを克服しつつ、  

個性豊かな 日本の近代絵画が育ち 発展してきたと 言えそうです ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年2月 8日 (水)

フランス料理に七味唐辛子 シスレーの町 

前回に引き続き、 画家 A.シスレーの町、 モレ Moret sur Loing を 散策します

 

                                                                  



11.      「 モレ シュル ロワン 」  by シスレー

夏の午後の日を浴びて輝く ロワン川とモレの街並み を描いています

 

シスレーは ルノワールに宛てて、  画家を夢中にさせる全ての要素を持っているから

モレは  ”  チョコレートの箱だ  ”  と書いている

11_2







12.       上の絵と同じアングルですが ↓ 、 

シスレーの時代と比べて
 現在は 中州の木々が かなり育っていますね

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13.     昔の城壁の一部、
 

1950年代には まだ、 アーチをくぐって 女たちが 洗濯しに来ておりました (写真下)

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14.     シスレーSisleyは 名前からわかるように    パリ生まれの イギリス人

 

裕福な実業家の父親は 商売の都合上 英仏を行き来し、

フランスとイギリス 両方ともが まるで自国の様だったと言う

 

シスレーも 英語と商業の勉強のため 若い頃 数年間  ロンドンで暮らしましたが

 

その時 美術館で出会った ” ターナー ” の影響が  その後の 彼の絵の中に 見え隠れするのも  

大変面白いことです

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15.       シスレーや 多くの画家が キャンバスを立てた この場所は、

 
今日のアマチュアにとって、 そして もちろん プロにとっても  「 聖地 」です

この日も   たまたま 愛好家のグループが 来ておりました 

 

15

速乾のアクリル絵の具で この場で仕上げてしまうという人や

まだ初心者ですから とってもお見せできませんよ、という人・・・

 

先生とおぼしき女性が みんなに指導する様子を つぶさに拝見させていただいた後

 「 先生でいらっしゃるのですね~?」と 尋ねると、   「 私は画家です 」とのお答え

   
多分  [ 先生 ] と [ 画家 ]は ニュアンスが違うのだと思う ・・・

 

                           



16.      豚肉、ハム、ソーセージなどを売る 「 シャルキュトリー Charcuterie 」

 簡単に言えば 「 肉屋 」ですが、  牛肉、馬肉、羊肉などを売るお店は

「 ブッシェリー Boucherie 」 と言います

さすが 肉食の国ですから 肉屋さんの 呼び名にもこだわりがあるのです ・・

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17.    さて 当夜泊まったのは シスレーの時代から有名な 「 黒馬 Cheval Noir 」というホテル

 

ディナーは なんと、 見た目も繊細、 味もお上品な ” ヌーベルキュイジン ( 新しいフランス料理 )  ” 

パレット型の黒い受け皿は別として、 材料や料理法などが かなり日本的でした !

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イチジクのソテーに 炒り胡麻、  青竹に入ったムースに 七味唐辛子、

 
口休めのスイーツには 赤唐辛子がかかっています~  ( 斬新なアイディアです! )

 

また、 玉子の黄身を 生で食べるなんて  フランス料理では 考えられないこと・・

 

昆布は 魚貝料理の盛り付け用に ヨーロッパで ごく 、たま~に見かけますが

日本の あの ” ワカメ ” が ソースの中で 泳いでる、、、

 「  ここは 日本デショ かァ~~!  」



                           



18.    思わず ボーイさんに 言った 「 まるで 日本でフランス料理を食べているようですよ~! 」

 

ボーイさん、 「  何言ってるのデスカ 」 ってな顔、  無理もありません、文化の伝承とは そういうものです

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一人の 有名なフランス人シェフが  京都の日本料理を フランス料理に持ち込んだのが40年前、



 
時を経て、人手を経て、( 昨今の流行や 健康志向もあり )  

ヌーベルキュイジンが どうやら 普通のレストランにまで 広く浸透して来たのが やっとこの頃、


 
町のレストランの人たちが アイディアの出所が日本料理だと 認識してなくても 
当然かも知れません・・・ !

 

 

                          

 

寿司とか ラーメンとか 一定の分野は別として  本当に美味しい 日本料理には 

滅多に出会えないことを思えば、 この フランス人の応用力は さすが 見事だと思いました~


                          



19.        シスレーの絵を 最後にもう一枚   「 春の小さな草地 」

セーヌのほとり、 12歳の娘 ジャンヌを配した 魅力的な絵です~

19




20.      ロワン川の岸辺で 絵を描いていた先程のグループは

翌日は ” グレ ” という町に 移動すると言っていました

20

こんな美しい丘を越えて 私も その ” グレ ”に 向います~

 

なにしろ、黒田清輝など  有名な日本人画家たちが 住んだ町ですから 

是非とも 訪ねない訳にいきません  ! 

                             

2012年2月 1日 (水)

シスレーの風景画を育んだ町 静かなるモレシュルロワン


今回は <<風景画家 シスレー A.Sisley>> の町、

 

パリの南東、約60km      モレ シュル ロワン Moret sur Loingを訪ねます

 

                                                         


01.           シスレーって どんな絵を描いた人?

 

まず挙げられるのが セーヌ川の氾濫を描いた シスレーの 不朽の名作、 「ポール マルリーの洪水」

01






02.         それから、 「サン マメ 6月の朝」

 

シスレーの こうした 気負いのない 穏やかな風景画、 日本でもファンが多いようです~

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03.      さて、まずは 城門から モレの旧市内に入ります

 

シスレー(1839~1899)は 英国や パリ近郊で暮らした後 

1880年から 人生の後半の20年を     ここモレと その付近で過ごしました

03








04.      彼の油彩画の半分、480枚が   この地域で描かれたと言うことですから

 

この町が 如何に豊かな芸術的インスピレーションを  シスレーに与えたか 想像に難くないところです

04

( セーヌの支流、ロワン川 La Loing )

 

 

 

05.        中世の ギルドホール

05







06. 洗濯女たちの川岸 Quai des laveuses

 

昔は 洗濯女たちが 手押し車に洗濯物を乗せて   この岸辺にやって来ました

06









07.      「 モレのプロヴァンシェの製粉所  」

 

ここは  06と 同じ場所ですが、 様子が少し違います 

第二次世界大戦のさ中、ドイツ軍に   この製粉所や木橋は 破壊されてしまったのです

07

ところで、 右手に チラッと 添え物のように描かれている ” お喋りしながら洗濯する女性たち ” 

なんて、他の画家であったら  恰好の画題になったでしょうに、 

 

シスレーは 人物は 風景の一部に配置するだけで、 極力 ” 風景の主役は風景 ” という考えに徹しました

 

同じ田園生活を描いた ” ピサロ ” の画面から  人間臭さが滲み出るのとは 対照的だと 言われています

 

                       




08.      「 モレの教会 ー 凍てつく天候 」

 

シスレーの ノートルダム教会 Eglise Notre Dameの連作は 14作品あります 

丁度同じころ モネも 「 ルアン大聖堂の連作 」を 描いていますが、

 

モネの作品が モダンアートを招来するような野心作として 世間で 圧倒的な評判を得たのに対して、 

内気で控えめなシスレーの作品は その陰に隠れた感がありました

08

実際  シスレーは ルアンに行って モネが聖堂を描いた場所を見ていますし、 

対抗意識がなかった訳でもないようです

 

しかし、それでも彼は むしろ 自分らしい、  散文的詩情の漂う 内的表現法に こだわり続けたのです

 

                          



09.     教会の隣にある  「 大麦糖記念館  Musee du Sucre d’Orge 」

 

モレの修道女たちが 1638年から ここで  シュックルドルジュ ( 大麦糖 Sucre d’Orge )、 

大麦の煮汁に砂糖を混ぜ  煮詰めた棒状の菓子、 を 作っていました

09b_3







10.     ここが 「 シスレーの家 」
 

シスレーは 1899年1月、  この家で ’ 咽頭がん ’ のため亡くなりました 

 

実は 彼の妻ウジェニーも その3か月前、 1898年10月に ’ 舌がん ’のため亡くなっています

10_2

当時は 戸籍と言うものに 差程こだわらなかったのか 

30年も連れ添ったウジェニーと 死の約2か月前、  やっと正式に結婚し
 

妻が亡くなるまで 献身的に看病したと言うことです

 

                            

 

その後、 彼の健康も急速に衰え、首を回すことすら困難となり  絵筆も取れなくなりました、、、    

その時、  彼は モネを呼び、子供の面倒をみてくれないかと 頼んだのです

 

( 以前、 私の モネに関する記事でも 触れましたが、 )

妻の多くの連れ子たちと 大らかに暮らしたモネのことですから

 

この寡黙な画家の 二人の子供たちの行く末にも きっと なにくれと気を配ったのではないでしょうか ・・・

                             

次回も  「 シスレーの モレシュルロワン 」    後半の記事がつづきます

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