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2012年1月

2012年1月25日 (水)

「シャルトルブルー」と「バルビゾンの苦い思い出」

今回は   イールドフランス Ile-de-France ( パリ周辺地域 )の

 
シャルトル Chartresと バルビゾン Barbizonを 訪ねます

                                                          

 

01. シャルトルの 「 ノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre Dame 」 は

 
大変ゴージャスで、見るべきものが多くありますが

 

”  bella流 見どころ ”を 3つほど・・・
 

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02.      まず <<シャルトルブルー>>

 

キリスト教に関する あらゆる場面を 網羅した 大編成のステンドグラス (12,13世紀) には  

約5000人の人物像が 登場します



 
研究者にとって その全ての人物と物語を研究するのは 一生かかろうかという 大仕事ですが
 

観光客としては とりあえず  満漢色の豪華なステンドグラスを仰ぎ見て、 

とりわけ ” シャルトルブルー ”を 堪能すれば  もう充分かもしれません !

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03.      次に   <<マリアの聖衣>>

 

この布は、5世紀に 既にコンスタンチノープルで ” マリアのベール ”として 知られていた聖遺物を

 
ビザンチンの女王が 876年、 フランス王に  ギフトとして献上したもので
 

近年、「 これは 確かに1世紀のシルクに違いない」 と 専門家のお墨付きが出ています


 

今日では ステンドグラスを 見に来る人の方が 多いかもしれませんが、  昔は

何世紀にもわたり、 多くの巡礼者が この聖衣目当てに シャルトルにやって来た訳で

 

大聖堂が 再建に必要な 潤沢な資金を得て来たのも、この布のお蔭と言えそうです

まさに この布は シャルトルの ” 稼ぎ頭 ”だったのです !

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04.      3つめが   <<ラビリンス>>

 

人々が 迷路の上を 中心に向けて くねくねと辿り行いている ・・・ 

大聖堂の床に 「 迷宮 ( ラビリンス、13世紀 )」 が 現存しているのは フランスでは2か所だけ

 

迷宮の中心は 聖地エルサレムを象徴すると言われており、  中世の頃は 人々は 

実際の苦難の道のりを 体現するかのように、 靴を脱ぎ  跪きながら 祈りを唱えつつ
中心に向かったという

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シャルトルの場合、 残念ながら 中心に描かれていたものは 長年の巡礼者の足跡で

すっかり消されてしまっている 

日本にも お伊勢参りや 富士登山をしたことにする 富士講と言った ” 代用アイディア ” があるが 

人々の願いは いずこも同じなのですね !

 

                                                         

 

05.      さて 今回は お土産に 「 銅版画 」を買いました~

 

シャルトル大聖堂は 一部シートが掛けられたまま  長いこと 改修工事が続き、 

街も 観光客が 昔よりはずっと増え、本来の静謐さが やや失われて来ているように感じます

 
版画に描かれた こんな街角が ずっと残って欲しいですね ・・・

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06.        さて、次は バルビゾンに向かいます
      ここは

大通り Grande Rueが 1本通るだけの 本当に小さな町 

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07.     それぞれの画家たちに因んだ 家やスポットに  作品のパネルが出ています

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08.     「 ミレー Jean Francois Millet 」は ” 農民画家 ” の名の通り、

この家で 9人の子供と暮らし、 地味な人生のまま 亡くなりました

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09.       お土産に買った 「 銅版画 」、  
これは バルビゾン派の画家の一人、 

シャルル ジャックCharles Jacque の 孫、 マルセル ジャックMarcel Jaqueの作品  「 納屋を出る羊の群れ 」

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10.       さて ここは 「 ホテル バ ブレオ Hotellerie du Bas-Breau 」

小さな村ながら 今や屈指の観光地となった バルビゾン、  その中でも ここは 最高級のホテル

 しかし 私にとっては 苦い思い出のホテルとなりました 

                         





入り口は小さいけど、奥のバルビゾンの森に 客室棟、レストラン、庭園、プールやテニスコートなどが 広々と展開し、


 
各国の要人や 有名人が泊まる、  映画のロケ地にもなるような 立派なホテルです

10

 

実は  フランス旅行の計画の際、  ここ 「 ミレーのバルビゾン 」に 泊まろうか、

「 画家、シスレーの町、モレシュルロワン 」に 泊まろうか 
散々迷ったあげく、

決めきれず  とうとう 両方のホテルを予約しておいたのです

 

1週間前までなら ” キャンセル料は無料 ” でしたから ・・

 

                         

 

 

ところが、 結局 「 シスレーの町 」を 選んだあと、 なんと このバルビゾンのホテルを キャンセルするのを


すっかり忘れてしまったのです !

目の前まで来て、  「 ホテルバブレオ 」 の写真なんぞを のんびり撮っている場合ではありませんでした~

 

結果  ” No Show ” 無断キャンセルは 宿泊料の100% 没収!!  

トホホ~~  

 

                          

 

翌月 カードから 幾ら 引き落とされてしまったかなんて 悔しくて とっても 言えません

 一生の不覚でした・・・       こんな失敗は 最後にしなくてはネ !! 

 

                               

 

次回は そのシスレーの町、モレシュルロワンです~
  
  

 

2012年1月18日 (水)

中世の家を買ってホテルを開業、さてHow Much?

 

今回は ブルターニュの大きな町、「 ヴァンヌ Vannes 」と「 レンヌ Rennes 」を 訪問します

                             

 

 

01.      まずは 「 ヴァンヌ Vannes 」   ここでも 素朴な木骨組の家並みが迎えてくれました

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02.          「 サンピエール大聖堂 Cathedrale St-Pierre 」

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03.       中心街    16世紀から ず~っと ここに建っています

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04.      「 ヴァンヌ 」は 9世紀には ブルターニュの首都でした
 

旧市街の周りに残っている城壁は、 今は きれいな公園として整備され、

マール川沿いにある 昔の 大規模な 「 洗濯場 Lavoir 」は そのまま残されている

 

時計屋には 看板時計が一杯!  まるで 時計の数だけ 時代が変遷していったかのよう ・・・

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05.      「 ヴァンヌ 」は ブルターニュの海沿いの大都市ですが  次は

ブルターニュの 内陸の大都市 「 レンヌ 」に 向かいます~

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06.       さて、  同じ日の夕刻  「 レンヌ Rennes 」 に到着しました~

夕暮れのオールドタウン、  1720年の大火や 第二次世界大戦での焼失を免れた

 
16世紀の木骨組の家々が 肩を寄せ合っておりました ・・・

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07.     ところで、 パリ・モンパルナス駅から レンヌまで  TGV(新幹線)で 2時間、

レンヌは そこから バスでモンサンミッシェルへ向う 中継点の町となっています

 

最近は、 モンサンミッシェルのついでに? レンヌ、 ディナン、 サン・マロなどを回って

パリに日帰りする人も多いという

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08.     さて、当夜のホテルは 16世紀の古い建物、

4部屋しかないというので、 2階建てぐらいだろうと  油断していましたが、

 

なんと 5階、最上階にある 広いワンフロア分の 部屋でした

 
ベッドルームが3室、 リビング・ 食堂・ 浴室・ 台所、  トイレが2つ !

一体 どのベッドに寝ようか迷ってしまった!  そして 広すぎて寒かった!  

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無論 エレベーターはない  4階(日本の5階)まで 四角い螺旋階段を 16回 

方向転換しながら登って行くと      目が回る、 息切れする !

 

” 古いって 不便で 疲れます! ”   それでも  ” 古いって 素敵です~! ”

 

                                     



09.     このホテルは 脱サラした  このムッシュが 

” レンヌで1番古い通り ” の、” 1番古い家を買い取り ” ホテル用にリフォームしたもの

 

もともと お金持ちだったのかもしれないけど、 

ムッシュ、” 清水の舞台から飛び降りたのね~  ”  男のロマン、っていうヤツ・・・ !?



            
            

因みに 土地建物で 1、400、000ユーロ、 リフォーム代が 1、200、000ユーロだったとか

当時のレートで言えば 「 合計 約3億2千万円なり 」    いろいろ紙に書いて説明してくれました~

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10.      1階は マダムが経営するファブリックなどのブティクになっている

 

ムッシュによれば、4部屋しかないこのホテルに、  毎日 1組は 日本人が泊まるという 

さすがモンサンミッシェルのご威光です 

 

ところで、 私たちの朝食には  コーヒーと紅茶を頼んだのに 「緑茶」が来た 


 
日本人だからと 気を利かせたのだろうけど・・・   
まっ 有難迷惑でした~ !

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ところで、ムッシュは その日、 もう1組 別の日本人客とは

メルシー以外 仏語も英語も  全く言葉が通じないと こぼしていた 

 

「 このホテルに食堂はないので、朝食一式は 私が部屋まで運びます、  

呼び鈴を鳴らし、  そのまま ドアサイドに 置いて立ち去るので、

冷めないうちに 室内に取り入れて欲しい・・」 と、  伝えたかったという
 

 

                          

 

ムッシュ、 「 お茶 」の勉強もいいですが、 「 日本語 」の勉強もしてくださいね~

日本人が こんなにお金を落としていくのですから・・・!    




 

 

 

以上で ブルターニュの旅は終わりです~

 

次回は イールドフランス、  パリ周辺の町を 訪ねます~

                                  

2012年1月10日 (火)

ゴーギャンには インディオの血が流れていた?!

ゴーギャンには 実際に インディオの血が流れていたか、

というご質問をいただきましたので、 
追記させていただきます。

 

                       


ゴーギャンの家系ですが、、 

父親クロヴィス (1814~49) は オルレアンの農家出身の 新聞記者だったが、

家族を伴って ペルーに亡命する航海の途中、 無念の病死を遂げる。

 


母親アリーヌ (1825~67) は

 
サン・シモン主義 (注) に傾倒した 情熱的な 気鋭の女流作家で、
 

ペルー時代は インカ陶器を熱心に蒐集した。


  

祖母フローラ(1803~44) は   最も初期のフェミニズム運動の闘士で、
 

” 因習から女性を解放し、 抑圧された労働者が平等に幸福に暮らすことが出来る

社会 ” を目指して 活動していた。



       
現代ならいざ知らず、 19Cの女性活動家が一体どんなものだったか 

想像もつかないが、
 才色兼備のフローラは 社交界でも花形だったと言う。  


( フローラを主人公とした小説 『楽園への道』  マリオ・バルガス=リョサ作 

があるらしい。 )

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                    ( 左が 祖母フローラ     右が 母 アリーヌ )



このフローラの先祖が もともと スペイン・アラゴン地方出の貴族で、 

植民地ペルーにおいて  はるか昔から代々、ペルー総督を 務めた家柄でした。





 俗に 男子は母親の影響を受け易いともいいますが、 

これだけ華やかな母方の血ですから、 ゴーギャンは 才能と情熱にあふれたその血を

当然のごとく 濃厚に 受け継いだのではないでしょうか。




その上 ペルーで 原始的 かつ 激しく異彩を放つ インカ文明に包まれて育つうち、 

幼きゴーギャンの体に インディオの血が 密やかに しかし 激しく脈打ちながら 

流れ込んだとしても  
少しも不思議ではなかったでしょう。

 

                       

 

実際、ゴーギャンの家族は 長年の統治の間に、  スペイン人と 現地のペルー人、 

それも ” 高貴な アステカ朝の血筋との混血 ” があったに違いないという

” ロマンティックな夢想 ” を  熱烈に信じ込もうとしていたのです。

 

ゴーギャン自身も その妄想に憑りつかれなかったはずがありません・・・ !

 

                        

 

本当に ゴーギャンに インディオの血が流れていたかどうかは 別として、 

ゴーギャンが 自らを ” ペルーの野蛮人 ” と呼び、 

生涯を通して、 未開なるもの 未分化で根源的なもの を求めつつ

結局、 タヒチで その人生と芸術を終息させたことこそ 
その何よりの答えだった

のはないでしょうか。





さて、 今回は あえて 白い肌の婦人像を 添付いたします 、、
 

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               ( 「 夜会服のメット 」 1884   ゴーギャンの妻 )

 

 

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        ( 「裸婦 シュザンヌ」 1880   自然なポーズで縫物をする女中)




17gauguin_paulportrait_of_a_woman_2

 

                ( 「 セザンヌの静物画の前の婦人像」1890 )





絵画に続き、   こちらは 現代の! ポンタヴェンのご婦人、 

息子さんが かつて、京都在住だったそう。     

日本びいきの 満面の笑みを浮かべながら 話しかけて下さいました~ 

18_2






以上で ブルターニュの ゴーギャンの旅 は 終わりです ~

                               

(注)

サン=シモン主義とは (ウィキぺ より)

社会の重要な任務は 富の生産を促進することである。
したがって物を生み出す産業階級は 貴族と僧侶よりも重要な要素である。

この生産を営む階級の重視が、サン=シモン主義だということ。

因みに、 サン・シモンは 「  50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人

・職工 の不慮の死は取り返しがつかないが、

50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は 容易に満たすことができる 」

との言葉を公にし、 1819年に告訴されている。 

2012年1月 2日 (月)

ゴーギャン 「黄色いキリスト」は左右が逆!(その2)

ゴーギャン 実在する「黄色いキリスト」(その1)の続きです

 

                                                      


07.           「 グロテスクな頭部を持つゴーギャン像 」
 

親指を口に入れ、妙な顔つきの 達磨によく似た焼き物、 

これはゴーギャンが抑圧された自分自身を表現したものだ。

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08.      「 黄色いキリストのある自画像 」 1889年

 

画面の左側に 黄色いキリスト が、 右側には  07.の グロテスクな頭部の焼き物が、 

そして 真ん中に自画像、 という構図 だ。

 

ゴーギャンは 自分の中に 聖なるものを求める 繊細な人間と

粗野なインディオの血が 混在していることを 自覚しており、
 

その狭間で葛藤する様を この構図で 象徴的に表現していると言われる。

08_2




ところで よく見ると キリストが元絵とは 左右が逆になっている。

 

” 鏡を見て描いたから ”、 というのが 定説になっている。 

しかし、 ゴーギャンは あちこちで描いたものを アトリエで再構成する名人でした。

見たものを そのままにしか描けなかったゴッホと 喧嘩になったことは 有名な話。


キリストを左右逆に描くなんてことは 朝飯前だったでしょう。

 


しかも 右側の グロテスクな頭部 は 左右逆にはなっていない。

鏡に忠実なら こちらも逆のはずだ ・・

 

つまり、この混乱した構図こそ 自分を取り巻く 「 聖と俗 」の葛藤を際立たせる 

のに役に立つ、 と彼は考えたのかも知れない。

 

                             


さらによく見ると ゴーギャンの 左目は爛々と輝き、右目は失望と混乱で 

濁っているかのようだ ・・

それぞれの左右の目を アンバランスに描いている。        そして、

キリストもグロテスクな頭部も 目がアンバランスだ。  全て意識的な作業だろう。





 

09.      さて、これが礼拝堂にある 「 黄色いキリスト 」の 実物の木像で 

首は 向って左側に傾いている。

 

飄々とした作風だが、 それがかえって ゴーギャンに

強いインスピレーションを 与えたのかも知れない。

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10.      ゴーギャンは 座席のどのあたりに座ったのでしょう ・・・

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  ( 目が慣れるまで かなり薄暗い堂内でした。 暗いので 早々に立ち去ってしまう

人もいるようですが、 お出かけの節は 入り口に 電気のスイッチがあるので 

見逃しませんように!  )

 

 

 

11.    礼拝堂の裏側、  屋根に 階段があり、恐らく 鐘を突くためと思われる。

 

いかにも田舎風の 素朴な礼拝堂で、 大聖堂にはない 不思議な魅力に

すっかりとりつかれてしまいました。

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12.     ところで ゴーギャンは 政治活動していた父親の亡命に伴い、
 

子供時代 6年間 ペルーのリマで暮らした。
 

スペインの貴族出身だった母親の親戚の リマの大邸宅は 花や果物の香りが漂い、

南国風に華やかに飾り立てられていたという ・・
 
そして、  幼いゴーギャンは 褐色の肌を露わにした召使たちに 

それはそれは熱烈に可愛がられたという ・・


                              




後年 ゴーギャンが移り住んだタヒチの原形は 既に ここにあったと言えるだろう。

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ところで、 母親は リマで 素朴なインカの陶器を熱心に蒐集し、 

そのコレクションは ゴーギャンに 生涯を通じて 深い影響を及ぼした。

 

” 三つ子の魂百まで ” と言うが、 自らをペルーの野蛮人と呼んだゴーギャンの

人生観も 芸術も、 
その源流はペルー時代にあり、

彼が後に暮らした マルティニックや ブルターニュ そしてタヒチより 早く

リマの影響が彼の魂に宿ったのかも知れない。





 

14.      さて最後に マルティニック時代の絵を取り上げてみたい。
 

「 マンゴーの木の下で 」 1887年 

この絵からは もう既に 後のタヒチが透けてみえるが  実は、この絵の購入者は

ゴッホの弟、テオだった。

ゴーギャンのこの時代の絵に深く感銘したテオは、 自らのコレクションに加え 

その後も ゴーギャンを何くれとなく 支援し続けて行く ・・・

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ところで 蛇足ながら、 ゴッホが尊敬するゴーギャンを アルルに誘ったのは

当然だと 頷けますが、 ゴーギャンの方がその気になったのは 不思議なことです 

当時 ゴーギャンも少なからずテオの世話になり その人柄には充分接していたはずで

南仏の魅力もあっただろうが  恐らく、テオという 後ろ盾に対する 感謝と信頼、

経済的支援が あったればこその決断だったのではないだろうか・・・

 

声をかけられた多くの画家のうち ゴッホに合流しようなどという者は

当時 誰一人、いなかった訳ですから・・・

                         


オーベール・シュル・オワーズ Auvers sur Oiseで ゴッホの死んだ部屋を訪ね、

フィンセントとテオ兄弟が 並んで眠る墓に詣で、

その後ブルターニュの西の果て ポンタヴェンまでゴーギャンの足跡を追って来ました。




絵画好きには 堪らない旅でしたが  
感慨深いものもありました。

” つくづく、 画家の人生って 一筋縄ではいかないものだなあ ” っと。

                          

 

 

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